雪の残り【65】


 

 バスケットの覗き窓の狭い視界の端に何か光るものを捉えた。その正体が分かる間もなく、スコーン! と軽い音がして、その数秒後に、ゴトーンと何かが落ちる鈍い音が響いた。

 

「ぎゃっ!」

 

 と間抜けな悲鳴を上げて純一君がうずくまる。その瞬間にバスケットから手を放したらしく、私はまっ逆さまに落とされ、「キャンっ」と思わず悲鳴を上げた。

 

 仰向けになった私には地面が上に見え、そこに、スポーツドリンクの缶がごろごろと転がっていった。

 

「あ! あ! あ! あなた……お姉ちゃんに……何を言っているのよ……! ……というか、どうして7歳も年上のお姉ちゃんと私を間違えるのよ!」

 

 聞こえてきた愛莉さんの声は震えていた。それは怒りからなのか、気恥ずかしさからなのか分からないけれど、今私がひしひしと感じているのは殺気というやつだろう。今の彼女なら、手を触れないでも人を殺せそうな気がする。

 

「愛莉……。ジュースの缶を投げるのはやめなさい。当たり所が悪かったら死ぬわよ」

 

「笑いをこらえながら言うなっ!」

 

 私はひっくり返ったバスケットの中でくるりと体を動かして、目の前で転がる凹んだスポーツドリンクの缶を、覗き窓から目で追った。先程飛んできたのはこれか……。

 

 なお、念のために言っておくが中身が入ったジュースの缶は、使い方を誤ればあまりにも危険な凶器になる。目などに当たればとんでもないことになるし、骨が折れたり、当たり所が悪ければ死ぬことだってあり得る。人に向けて投げたり、頭の上に落としたり、それで叩いたりなど、絶対にやってはいけない。ダメ! 絶対! である。

 

「ふ~ん。愛莉が孝樹君のことをね~。へ~。それなら、妹思いのお姉ちゃんが一肌脱いであげよう」

 

「やめなさい! なんでもかんでも、面白おかしくしようとするくせに!」

 

「失礼ね。可愛い妹の恋路を応援してあげようと思っているのに」

 

「その物言いが既に……」

 

 と言いかけた愛莉さんがため息をつきながらがっくりと肩を落とした様な気がした。彼女にも苦手なものがあったのか、と少々意外に思えた。

 

 愛莉さんは、沙耶香さんを相手にするのをやめて、標的を純一君に移したようだった。その純一君はといえば、未だ頭を押さえてうずくまったままだ。

 

 大切なことだから何度でも言うけれど、人に向かって中身入りの(中身が入っていなくても!)ジュースの缶を投げてはいけない。スプレーなどの缶を投げてもいけない。ペットボトルもダメだし、ドラム缶もアウトだ。何が言いたいかといえば……人に向かって物を投げちゃダメってこと。経験者として声を大にして叫ぼう。

 

 私は、今の愛莉さんの迫力に押され、バスケットの中で縮こまりながら、心の中で力強く主張した。

 

「……とにかく」

 

 愛莉さんは純一君の前に、彼と同じようにしゃがみこんで、両手で純一君の顔を挟む。

「私は、君の助けなんか必要ないから」

 

 私のところからではよく見えないけれど、純一君は何か恐ろしいものを見たかのようにコクコクと頷く。一体、彼は何を見たのだろう? それこそ、知らない方がいいことも世の中にはある、というものなのだろう。

 

「もういい時間だし、行こうか」

 

 口調に笑いを含ませたまま、沙耶香さんが人差し指をキーホルダーにさして、くるくると車の鍵を回した。

 

「だってさ。……さっさと立ちなさい」

 

「お前な……」

 

 未だに回復できていない純一君は、怒りとは違った震える声で一言返すのが精いっぱいだった。いや、これは怒りの震えだったのかもしれない。愛莉さんは全く意に介していなかったが。

 

*     *     *

 

 8月25日――。夏休みが終わりに近づいていた。あれから雨の日も、曇りの日もあって晴れた日ばかりではなかったが、ようやく私は夏バテから少し脱して、食欲は今まで以上に旺盛になっていた。すくすくと成長している証拠だろう。

 

 校舎の中を散歩していると、幾人かの生徒が私に手を伸ばしてきた。頭や背中や尻尾やお腹を撫でられてくすぐったい。じゃれながら、ふと一抹の寂しさを感じていた。純一君とも、若葉さんとも、愛莉さんとも、孝樹君とも、病院以来、しばらく顔を合わせていなかった。

 

 

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