雪の残り【64】


 

 戻ってこなかったとしても、若葉さんはどうにも思わないだろうけれど、孝樹君は多分違う。5年前と同じ痛みを、また孝樹君に背負わせることになるのではないか? 二度としないと誓った後悔を、またさせてしまうのではないか?

 

「身勝手かもしれないけれど……いや、身勝手なのは十分承知しているけれど、あいつがどう選択するか、確かめたいんだ。水泳を取るのか、藤崎……若葉を取るのか」

 

 そうか、純一君は負けたがっているんだ……と私が気付いたのと同時に、ひゅんっと空を切る音が聞こえた。愛莉さんが放った右ストレートを純一君はかろうじてかわす。

 

「あ……あぶね~」

 

「……ったく。難しく考えすぎなのよ。そんなに兜を脱ぎたければ、とっとと脱ぎなさいよ! 白旗上げたければ勝手にしなさい!」

 

「……ありがとう。陽村さん」

 

 純一君は何故か愛莉さんにお礼を言うと、私が入ったバスケットを地面に置いた。

 

 それから、頭の上からピピピと携帯電話を操作をする電子音が聞こえた。

 

「話をするのなら、私がいないところでやりなさい」

 

 不機嫌極まりない声で愛莉さんに追い払われた純一君の、「ひでーな」とぶつぶつ言う声と足音が遠ざかっていった。

 

 純一君の足音が完全に聞こえなくなった時、

 

「大丈夫よ。孝樹君はあれでいて精神の強い選手だから。当日は、ちゃんとベストの結果が残せる人だよ」

 

 と、愛莉さんに沙耶香さんが声をかけた。地面に置かれたままのバスケットの覗き窓から見上げてみると、愛莉さんは酷く不安そうな顔をしているように見えた。

 

 しかし、愛莉さんの口から出てきたのは、強がりにも似た言葉だった。

 

「そんなことは、私の方がよく知っているよ。名城君が、こんなことでダメになったり潰されたりするような人じゃないって、分かっているから。だからこそ、私は名城君に伝えたくなかったんだよ」

 

 声を震わせながら言っても、あまり説得力がない。愛莉さん本人も、そのことは自覚しているのだろう。 靴の裏が擦れる音が聞こえた。沙耶香さんが、「……どこに行くの?」と尋ねたので、愛莉さんがその場を離れようとしているのだと分かった。

 

「通りの向こうにコンビニがあったのが見えたから飲み物を買ってくる。お姉ちゃんは?」

「煙草買ってきて。ロングピ○スか、ショ○トホ○プね」

 

「高校生にそんなものを買わせるなっ!」

 

*     *     *

 

 愛莉さんがいなくなってしばらく経って、電話を終えた純一君の足音が戻ってきた。ふわっと体が浮遊した感じがした。純一君が私をバスケットごと持ち上げたのだ。

 

「お待たせ。連絡がついたよ」

 

「孝樹君は何て?」

 

 と聞いたのは沙耶香さん。沙耶香さんなのである。愛莉さんはこの場にいないのだから。

 

「うん……心配してたよ」

 

「帰ってくるとか言い出さなかった?」

 

「どうかな……別に何もいわなかったけれど」

 

「ま。肝心なことは、あんまり口にしない子だからね」

 

 くすくすと沙耶香さんが笑う。何度も言うようだけれど、この場に今、愛莉さんはいなくて、沙耶香さんだけが残っているのである。

 

「あのさ……」

 

「ん?」

 

「いや……何ていうか、僕は陽村さんの事……以前は嫌な人だと思ってたんだ。本当に、申し訳ない」

 

「……」

 

「それに、ここのところ、本当に陽村さんには、色々面倒かけているし……。その……僕と若葉のことは置いておいて、陽村さんと名城が上手くいくように、必要があったら何でも手を貸すから……」

 

 最後まで、純一君は目の前にいるのが愛莉さんではなく、沙耶香さんなのだと気付いていなかった。察しの悪さだけは彼は誰にも負けないのではなかろうか。さっきから沙耶香さんは孝樹君のことを「孝樹君」と呼んでいたし、「肝心なことは、あんまり口にしない子」と明らかに子供扱いしていたのに。

 

 

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