雪の残り【58】


 

 誰かが聞いているかもしれないとか、見られているかもしれないなどという不安は、頭から完全に消え去っていた。さっきまで元気だった人が死んでしまうかもしれない。いなくなってしまうかもしれない。しかも、その人は私が大好きなお友だちなのだ。

 

 怖い! 怖い! 怖い!

 

 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!

 

「早く! 早く上がってきて! 大変だよ!」

 

 早く来て! と半泣きになりながら、私は窓から首を出して下にいる純一君に叫んだ。

 

 純一が階段を上がってくる足音が聞こえてきた。私も意識があるのかはっきりしない若葉さんのために何かしたいと思ったが、私に応急処置の心得などあろうはずがない。彼女の頬を、私はぺろぺろと舐めたが、反応は見当たらなかった。

 

 私は周囲を素早く見回すと、床に落ちた携帯電話の脇にメモ用紙が落ちているのに気がついた。そこには数字の羅列が記されている。一旦濡れて乾いたような形跡があった。おそらく、先ほど用水地で落としたハンドバックの中に入っていたのだと思う。

 

 同時に私は理解したような気がした。若葉さんがあの時、池に落としたハンドバッグにあれほどこだわっていたのはこのメモ用紙に書かれた内容のためだったのではないか? 私は何故だかわからないが、それを純一君に見せてはいけないような気がして、そのメモ用紙を口の中に含んだ。

 

 純一君が若葉さんの部屋の中に入ってきたのはこの直後だった。

 

「若葉! おい。しっかりしろ」

 

 大声で呼びかけた純一君に、若葉さんが微かな反応を示した。うっすらと瞼を開けると、聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いた。 

 

「孝ちゃん……来てくれたんだ」

 

 どうして、聞かなければいい言葉ほどよく聞こえてしまうのだろう。意識が混濁している若葉さんを、責めることなどできるはずがない。しかし、それを聞いた純一君の顔色はさっと青ざめた。今、倒れている若葉さんよりも蒼白だと思えるほどだった。

 

「動くなッ!」

 

 その時、若葉さんの部屋の扉が開けられ、鋭い声が響いた。黒服を着込んだ男が2名、部屋の中に入ってきた。よっぽど私も純一君も余裕がなくなっていたらしく、この男たちが上がってくる足音に気付きもしなかった。

 

 2人の男は、奇妙な玩具のような、筒のようなものを純一君に向ける。それは玩具ではなく、拳銃という武器であることを私が知るのは後々のことだった。リボルバー(回転式拳銃)と呼ばれる種類の拳銃で、より詳しく言うならば、ミネベア製ニューナンブM60 .38口径官用回転式拳銃というものである。“官用”回転式拳銃。早い話、この国の官憲が使う拳銃の一つである。

 

*     *     *

 

 山楝蛇という蛇がいる。ヤマカガシと読む。蛇に興味のない人にはかなり知名度が低いこの蛇だが、北海道や南西諸島、小笠原諸島などを除けば、日本列島に広く分布している。名前こそヤマだが、平地の水田や渓流、水場などに住んでおり、蛙などを主食としている。

 

 土地によってその色合いは様々だが、斑点模様が特徴のこの蛇は、実はマムシの4倍も強力な猛毒を持つ毒蛇である。ヤマカガシに噛まれると、血液の凝固作用が失われ、皮下出血、歯ぐきからの出血、腎機能障害などが発生する。最悪の場合は脳内出血にまで至る恐れがあり、当然命にも関わりかねない。

 

 しかし、本来性格はおとなしく、人間側から手を出さない限りまず噛みつかれる恐れがないことや、毒が出る部位が奥歯にあるために、長時間噛まれない限り毒が体に入ってこない。そのため、ヤマカガシによる被害件数はマムシの百分の一以下である。

 

 

 そういった事実を、入ってきた警察官の1人が知っていたのは幸いだった。おそらくは、用水池に入ったときに、誤って踏みつけてしまったのだろう。普段なら激痛が走ったはずだが、あの時は無我夢中だったはずだし、気付かなかったのだろう。そして私が見た不自然な波紋は、若葉さんの脚を離れて泳ぎ去っていくヤマカガシだったのだ。

 

 

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