雪の残り【57】


 

 私は少し不安に思った。ペダルを踏み込まなくてもぐんぐんと速度を増していく自転車が、サドルに腰掛けた純一君自身と重なる。さっき、孝樹君と話している純一君から感じたのはある種の優越感だった。若葉さんと付き合えることになって舞い上がっている彼にとっては、孝樹君に初めて、そしてこの先どれほど白星を重ねてもひっくり返せないほどの黒星を付けたつもりだろう。本人が気付いているのかいないのかは別にして、鼻もちならない自信家に純一君がなってしまったような感じがして、私は凄く嫌だった。

 

 しかし、自信なんているのは自分で思うよりも根拠のない基盤の上に建っている、砂上の楼閣のようなものだ。それをより強固なものにしていくために人は努力をする。

 

 でも、純一君の自信は、何の根拠もない、空から降ってきたようなものだ。何もしなくても速度が上がっている間はいい。今の坂道をさらに速度を増しながら滑走している自転車のように。しかし、いずれは止まる。

 

 純一君は、ついさっき別れたばかりの若葉さんの白い家の前でブレーキをかけて止まった。私たちが坂道を上がって公園まで戻った時の10分の1程の時間だと思った。時計はないけれど、そんなものだと思う。

 

 私は、ここに来る途中に考えていたことを頭を振って追い払うと、純一君が呼び鈴を鳴らす姿を見つめた。呼び鈴を鳴らしたら、「はーい。どなた?」という若葉さんの明るい声が返ってくる。そんな期待は簡単に裏切られ、何度呼び鈴を鳴らしても、応答はなかった。

 

 純一君が玄関のノブに手をかけると、鍵は閉まっておらず簡単に開いた。そのまま家の中に入ろうかと、思案した純一君だったけれど、「返事のない家の中に勝手に入るわけにもいかないよな」と呟き、私に「外から様子を見てきてくれ」と指示を出すとバスケットを開いた。

 私は、庭から家の周りを一周する。庭には横開きのガラス戸がはめられていて縁側になっている。しかし、白いカーテンが閉められていて中を見ることはできなかった。身体を擦≪こす≫ってガラス戸を横に動かそうとしたけれど、鍵がかかっているらしく全く動く気配もなかった。

 

 私は、庭から二階を見上げた。窓があけ放たれて水色のカーテンが外になびいているのが見えた。そこを目指して、私は、ひょいひょいと足場を見つけて二階まで上がって行った。こういうのはお手のものだと調子に乗って窓のサッシに飛びついた瞬間、つるりと足下が滑った。必死に前足をサッシにかけて何とか転落は免れたけれど、怖かった。

 

 下で見ている純一君がはらはらした顔で見ている。「だ・い・じょ・う・ぶ・か?」と、声には出さずに口だけ動かして呼びかけてきた。

 

 私は親指を立てることはできないので代わりに尻尾を立てて、大丈夫だと伝えて中に入った。

 

 中に入ると、見知った顔があった。さっき別れたばかりの若葉さんが、さっきと同じ服装のままで、窓際に置かれたベッドの上でうつぶせになっていた。最初に見た瞬間は寝ているようにも見えたけれど、すぐに何か変だと思った。

 

 若葉さんの左腕がベッドから落ちる格好でだらりと垂れ下がっていた。床からベッドの高さは40cmくらいあるだろうか。彼女の左手は床に着き、その傍らに携帯電話が落ちている

 

 若葉さんの左足のふくらはぎには、別れた時にはなかった包帯が巻かれている。帰宅して最初にやったのが包帯を巻くことだったのだろう? その包帯は、すでに赤く血で染まっていた。

 

 私は、若葉さんの顔を覗き込んだ。その顔からは血の気が引いて蒼白だった。いつもの健康的な血色のいい肌の女の子とは別人のように思えるほどだ。呼吸が、ほんの少しでも目を離したらその瞬間に途切れてしまいそうに思えるくらい弱々しい。

 

 

 その顔を見て、さっきのとは違った種類の恐怖が、腹の奥からせり上がってくる。大変だ! このままじゃ若葉さんが死んでしまう! そんな根拠のない確信が、私の思考を埋め尽くした。

 

 

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