雪の残り【56】


 

 公園について、さっきまで若葉さんが傷口を洗っていた水道から、純一君が少し蛇口のつまみをひねると、細く垂れてきた水の流れに口を付けて喉を潤した。鉄の臭いがする。水道の蛇口や、排水溝の網の目になった鉄の蓋の臭いなのは分かっているけれど、血の匂いが未だにこびりついているような気がする。

 

「……まったく。今日は僕は何をしていたんだろうね」

 

 純一君がずれた眼鏡を治しながら言った。言葉とは裏腹に口調はとてもうれしそうだ。その時、純一君のポケットがブーンと言う音を立てて震えた。それが4回、5回と続く。

 

「ちょっと待ってくれよ」

 

 濡れた手をTシャツの裾で拭いて、ポケットから携帯電話を取り出した。携帯電話はまだ振動を続けていた。

 

「登録していない番号だな……もしもし」

 

 純一君は、電話の向こうの相手が誰かすぐに分かったようだった。

 

「名城? 何でこの電話番号を……ああ、陽村さんから……って、何で陽村さんが僕の番号を知っているんだ!? ……え? 藤崎?」

 

 電話の相手は孝樹君のようだった。それを知った途端、虫の知らせというのだろうか、とても嫌な予感が胸いっぱいに広がって、人の電話を盗み聞きするのは悪いことだとは知りつつも、私は純一君の肩に乗って、耳をそばだてた。

 

 ――さっき、若葉から電話があったんだが……。酷く、調子が悪そうだったから気になったんだ。

 

「ああ。実はさっき……怪我をしてさ。そんなに大きな傷じゃないんだけれど」

 

 詳しいことは言わずに、怪我をした事実だけを伝える。心配させまいとする純一君なりに気遣いだろうか?

 

 ――血が止まらないって言っていたぞ。そんなに深い傷だったのか?

 

「深いって感じはしなかったけれど……」

 

 ――他に何か言っていなかったか?

 

「……いや。頭痛がするって言っていたような」

 

 ――まさかと思うけれど、何かに噛まれたような傷跡じゃなかったか? 蛇とか……。

 

「蛇……」

 

 純一君はしばらく考え込んで、さっき見たばかりの若葉さんの傷跡を思い出そうとしていた。

 

 私も思い出す。確かに、何かが刺さった跡に見えないこともなかったと思う。確かに、何かの噛み傷ではないかと問われれば、そう見えないこともなかった。いや、どうして言われるまで気が付かなかったのだろうか?

 

「確かに、そんなふうに見えないこともなかったかも……」

 

 ――ひょっとしたら……杞憂だと思うけれど、様子を見に行ってもらえないか? 家の場所を教えるから。今、どこにいる?

 

「例の用水池の近くの稲荷神社のところの公園」

 

 ――だったらすぐだ。

 

「若葉の家は知っているから心配するな。すぐに行ってくるから……」

 

 ――ふうん。家に行ったりする仲なんだ。だったら、よろしく頼む。

 

 それを聞きながら私は、若葉さんが少年を助けるために用水池に入り込んだ時のことを思い出していた。あの時確かに、本来彼女を中心に拡がっていくはずの波紋の一部が、横に向かって突き出して離れて行ったのだ。それは、そこに何かの生き物がいて、そこに入り込んできた若葉さんから離れて行ったのだと、どうして考え及ばなかったのだろうか?

 

 と同時にこの時、純一君が若葉さんの家を知っているという事実は、電話の向こうの孝樹君の心中に何の波紋ももたらしてはいないのだろうか? 声だけではどうにも読み取れないなぁ……などと考えていた私は、まだ、事の重大性を認識していなかったのである。

 

*     *     *

 

 

 孝樹君に「こっちのことは任せて試合を頑張れよ」と激励の言葉をかけて電話を切ると、純一君は自転車の荷台に乗せたままのバスケットに私を放り込むと、今来た坂道を自転車で降りて行った。今度は下り坂だ。あっという間にトップスピードに上がっていく。

 

 

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