雪の残り【55】


 

*     *     *

 

 愛莉さんと別れて、私と純一君、若葉さんは再び坂を上って公園へと戻って来ていた。そこに設置された水飲み場で、若葉さんの傷口を水で流していた。

 

 傷口にしみるのか、水がかかるたびに顔を微かに歪める。純一君はその顔を見ないようにしながら、水をかけて血を洗い流してはハンカチで押さえる。ちなみに、このハンカチは愛莉さんの所有物であり、元は薄い桃色をしていたがすでに、大量の血を吸い上げて変色していた。

 

「しかし、人を助けるのって本当に難しいね。大変なことなんだ」

 

「まったく、嫁入り前の体に大きな怪我を作って」

 

 しみじみと言う若葉さんに、純一君は軽口を返す。それに対して「父親か? 君は」とさらにおどけたように応じた。

 

 そんな会話をしている間にも、赤く色付いた水が、次々と排水溝に流れ込んでいく。

 

「おかしいなぁ……血が止まらないよ」

 

 いつまでも血が固まらないために若葉さんが不安を覚え始めたのを感じたようで、純一君はギュッとハンカチで患部を縛った。

 

「さっさと帰った方がいいよ。消毒して、包帯ぐるぐる巻いておけば、すぐに止まるって。なに、患部が足だから止まりにくいだけで、気にすることはないよ」

 

 純一君が不安を振り払うように明るく言った。

 

「うん……そうする」

 

「大丈夫か? 肩を貸そうか?」

 

「ううん。大丈夫。ちょっと頭痛がするだけ」

 

 不安が無くなったかどうかは分からないけれど、純一君の意見に同意して水道の水を止めた若葉さんが、立ちくらみを起こしてよろめいた。それを、純一君が支える。

 

「送るよ。すぐ近くなんだろ?」

 

「じゃ……言葉に甘えるよ」

 

 私は胸騒ぎがしていた。ほとんどが切ったような傷跡だったけれど、いくつか細い穴のような――何かが刺さったような傷跡が見られた。それでも、いつまでも血が止まらないような深い傷には思えなかった。

 

 純一君が巻いたハンカチからは、とても元の色は想像できないくらい赤く染まっている。

 

*     *     *

 

 若葉さんの家まで、ここから約30分ほどの道のりだった。若葉さんが足を引きずるようにして歩いていたので、少し時間がかかっただけで、普段ならもっと早いのだろう。小学生のころからあの用水池まで来ていたという話を思い出す。そのころは、このくらいの時間がかかったのだろうか。

 

 その足が、住宅地の一軒家の前で止まった。生垣に囲まれた、白い住宅だった。

 

「……ここ、私の家だから。まぁ、親はいないけれど上がって行ってよ」

 

「今日は遠慮しておくよ。……包帯は自分で巻ける?」

 

 せっかくの若葉さんの申し出を、純一君は名残惜しそうにしながらも断り、「じゃ、また今度」と別れた。

 

 公園に戻る途中で純一君は「『隣近所の目』って奴があるんだよ」と言った。女子高生が、家人が家にいない時に同級生とはいえ男を家に上げたりするのを見られたら、例え何もなかったとしても、あらぬことを言う者がいるのだという。

 

「まぁ、何もなかったら何もなかったで、男としてどうなんだって話だけれどな」

 

 ひひひっと下卑た笑いを見せた。意味は分からなかったけれど、その笑いが気持ち悪かったことと、多分下ネタだろうと思ったので、白けた視線を純一君に送った。

 

 その視線に純一君は気付き、わざとらしい咳払いを1つ。

 

「でも、まぁ、そんなに気にすることはないさ。明日になれば、元気に連絡してきてくれるよ」

 

 しかし、この時の判断を、甘い考えを、つまらない軽口を、彼は後悔することになる。ほんのわずか後で……。

 

 再び公園へと戻ってきたのは、自転車も私が入っていたバスケットも、そこに置いたままにしていたからだった。坂道を歩いて登りながら――なんだかひどく疲れてしまい“上る”ではなく“登る”の心境だった――坂を見下ろすと、なんだか断崖を見下ろす気分になった。さっきは、そんな風には思わなかったはずなのに。怖くなった私は純一君の背中に飛び乗った。

 

 

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