雪の残り【54】


 

「……とても届かないかなぁ」

 

 た若葉さんがどうしても諦めきれないといった口調で言ったのは、どのくらいが経ってからだろう。純一君のTシャツも若葉さんもブラウスもとっくに乾ききっていたから、そのくらいの時間は優に過ぎ去っていた。

 

「いい加減にしないと、日射病になるよ」

 

 純一君も色々知恵を絞ってはいたけれど、さすがにかなりの時間が経ってもう諦めた方がよいと判断したようだった。暗に引き上げようと促された若葉さんだったけれど、どうしても諦めきれないらしい。「森上は帰っていいよ」と言いながら、まだ水面を叩いたりして、無駄としか思えない努力を続けていた。

 

“徒労”という単語を教えてくれたのは孝樹君だった。これまでしてきた努力がふいになってしまうことを表す言葉。しかし、今回は徒労には終わらなかった。無駄だと思われた努力が実を結び、だんだん池面に水の流れが生まれて、浮かんでいたハンドバッグが岸の方に寄って来る気配が出てきたのだった。

 

 最初はゆっくりと、やがてはっきり分かるくらいに速度が上がり、みるみるうちに岸へ近づいてきた。これぞ好機と木の棒を突き出し、ハンドバッグの持ち手に引っ掛けて、自分の方に引き寄せた。

 

「良かったー!」

 

 長い苦闘の末、ようやく自分の手元に戻ってきたハンドバッグを抱きしめて、嬉しそうに笑う。ああ……また服が濡れちゃう。

 

 その一部始終を見ていた純一君がパチパチパチ、と拍手をする。

 

「執念が実ったわね」

 

 声をかけたの愛莉さんの顔に浮かんでいるのは、驚き半分、呆れ半分、称賛半分といったところか。え? 半分を3つ足したら全部を超えてしまう?

 

 対して涙ぐむ若葉さんの顔には歓喜しかない。

 

「はい!」

 

「よっぽど大切なものが入っていたのね? 携帯?」

 

 よっぽどの部分に力を込めながらの問いに、若葉さんはなぜか返答に窮したようだった。しかし、すぐに、「……そんなところ」と返した。

 

 若葉さんがハンドバッグ相手に激闘を繰り広げていた時間は、言葉にするとほんのわずかな時間のように感じるけれど、公園にいた時には真上近くにあった太陽が、大分傾いてしまっていた。

 

「ごめんね。今日は、どこかに行くのは難しいかな。服は乾いたけれど……」

 

 若葉さんは腕時計で時間を確かめながら純一君に謝った。

 

「気にするなよ。これから、時間はたくさんあるんだ」

 

「うん……」

 

 2人のやり取りを聞いていた愛莉さんが、眉をぴんと跳ねあげる。

 

「ねえ? ひょっとしてあなたたち……」

 

 顔を見合わせ、「私たち、付き合うことになったんだ」と愛莉さんに伝えたのはのは若葉さんの方。

 

「……だから、愛莉さんは何も気にしなくていいから」

 

 と付け加えた。いくら人間のことに疎い私でも、この一言が余計なのは分かる。

 

 愛莉さんは、その一言で全てを察したようだった。それはそうだろう。若葉さんの愛莉さんへの遠慮は、私でさえすぐに分かってしまったのだから、本人が気付かないはずがない。

 

 気付いていない純一君は……本人の名誉のために言ってあげるとすれば、間が抜けているのではなく、浮かれて舞い上がって大切なところを見落としているだけなのだろう。でもいずれは分かってしまうのだろうな、と思う。そう考えると、若葉さんは凄く酷いことをしているように思えてきた。

 

「私は運命だの神様の導きだのは信じない性質なのだけれど、5年前の事故がなければ私と名城君が会うこともなかったのだからね……あんたとは、正々堂々の関係でいたかったんだけれどね」

 

 愛莉さんは、少しだけ残念そうに言った。若葉さんは、純一君の腕をぎゅっとつかむと、

 

「正々堂々どころか、陽村さんにはいっぱい塩を送ってもらって……」

 

 そう言う顔が、少し青ざめている。怪我と、疲れのせいだろうか?

 

 

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