雪の残り【53】


 

 叱られている純一君と叱りつけている愛莉さんを見ながら、爽やかな笑顔で若葉さんが言い放った。

 

「陽村さんって、まるでお母さんみたいだね」

 

 若葉さんの言葉が終わるより早く、私の両足が地面から離れていた。腹のあたりに鈍い痛みがあったけれど、その痛みの原因が分かるより早く、私は物凄い勢いで宙を飛んでいた。

 

 その私を若葉さんが両手で捕まえる。ほんの数秒間の出来事だったけれど、頭が揺らされたような感じでくらくらして状況がつかめない。愛莉さんが若葉さんに向かって私を投げつけたことに気付いたのは若葉さんが私を地面に下ろしてからだった。

 

「危ないなあ……もう」

 

 全くだ……。

 

「変なことを言うんじゃない! 誰がこんな……」

 

 よっぽど嫌だったのだろう。愛莉さんの白い腕にはぷつぷつと鳥肌が立っていて、私も何だか体が痒くなってきた。

 

「それにしても、さっきの子は大丈夫かしら?」

 

 これ以上引っ張ると良くないと思ったのか若葉さんが話題を変えた。

 

「怪我はなさそうだったけれど……何かあっても自業自得よ」

 

「陽村さん……子供相手に、あれはないよ」

 

「子供だから言ったの。死ぬときは、大人だって子供だって関係ないわ。いい教訓になったでしょ」

 

「そんなことにならないように見守るのが大人の務めじゃない!」

 

「1回やっただけで取り返しのつかない結果を招くことだってあるのよ。後になって、こんなことになるなんて思わなかった……なんて言ったって遅いことだっていっぱいあるのよ」

 

 結局、再び言い合いになりはじめたところで純一君が仲裁に入る。

 

「まぁ、結果、何もなかったからよかったじゃないか」

 

「何もなければそれでいいって話でもないでしょうが!」

 

 愛莉さんが今度は純一君を怒鳴りつけ、純一君は「はいっ!」と身をすくめた。その様子を見た愛莉さんは、小さく首を左右に振った。

 

「何をムキになっているんだろう……私」

 

 若葉さんの足元にとどまっていた私は、ふと視線を上に向け――次の瞬間、目に入ってきた若葉さんの左足ふくらはぎに、私は思わず「ひっ」と声を上げた。

 

「どうした?」

 

 私の声に気付いた純一君が腰を下ろして、眉をひそめた。若葉さんの左足のふくらはぎは池に入った時に木の枝か何かで切ったのか、血で真っ赤に染まっていた。血は、結構な時間がたっているにもかかわらず、止まらずに流れ続けていた。

 

「藤崎。足がひどいことになっているぞ」

 

 と言いながらハンカチを取り出そうとジーンズのポケットを探したけれど入っていなかったようだった。代わりに愛莉さんがハンドバッグ(ちなみに助けに入る前に放り捨てたらしく、地面に落ちていた)からポーチを取り出し、そこからハンカチとティッシュを取りだした。

 

「本当だ。道理でひりひりすると思ったんだよ……。別に大丈夫。ハンカチとかなら持っているから」

 

 若葉さんは愛莉さんのハンカチが血で汚れることを気にしてか、ハンカチを受け取るのを拒否したけれど、愛莉さんは「あなたのハンドバッグはあそこよ」と池の中ほどを指差した。さっきまで子供が溺れていたあたりに、ピンク色の小さなバッグがぷかぷかと浮いていた。

 

 若葉さんは、放置されていた木の棒を拾ってきて引き寄せようとしたものの、岸からハンドバッグまでは、とてもじゃないけれど遠すぎた。

 

「お前、泳いで取ってこいよ」

 

 冗談めいた口調で純一君が言うので、私はぶるぶると首を勢い良く左右に振った。私はこれまで泳いだことがないし、何より水に濡れるのが苦手なのだ。体力もないし、あそこにたどり着くまでに水没するのは目に見えている。

 

 なお、すでに若葉さんのふくらはぎの傷口の血は、愛莉さんによって拭き取られた後である。ハンドバッグを取ろうと悪戦苦闘する様子を腕組みして欠伸を噛み殺しながら立って見ている愛莉さんの目は、「いい加減に諦めればいいのに」と雄弁に語っていた。

 

 

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