雪の残り【52】


 

「それでも羽織ってなさい。白いブラウスで水の中に入ったからとんでもないことになっているわよ」

 

 私には何が“とんでもないこと”なのか分からなかったけれど、若葉さんが小さな悲鳴と同時にうずくまり、両手で胸の辺りを押さえて体を隠すような動作をしたので、相当に“とんでもないこと”だったのだろう。

 

「森上……」

 

 急に、怒りの色に彩られた若葉さんの目が、ここまで全く話に加わっていなかった純一君に向けられた。

 

「アンタ……見てたね?」

 

 へたり込んだままで話しに割って入るタイミングをうかがっていた純一君が、いきなり怒りの矛先を向けられ、しどろもどろになりながら、「ええ……と、まぁ……」と肯定とも否定ともとれる返事を返した。

 

 純一君を睨んでいた若葉さんだったけれど、次の瞬間、「きゃぁ!」っと若葉さんがさっきより1オクターブ甲高い声で悲鳴を上げて、両手を顔に当てて体ごと後ろを向いた。

 

 その様子を見て純一君は怪訝そうな顔をしたけれど、愛莉さんはすぐに理由がわかったようだった。

 

「まったく。そんな貧相な体を見て、何を顔を赤くしているのよ」

 

 純一君はそれを聞いてはっとしたようだった。さっき、彼が着ていた灰色のTシャツは2人を助けるために脱いで命綱に使って……それっきりだった。

 

「ひ、貧相って……」

 

 不服そうに言い返した純一君を指差した愛莉さんは、にやにやといつかのような人の悪い笑みを浮かべながら、

 

「ね。藤崎さん。彼、名城君と比べて、どう? この間、プールに入っているところを見たでしょう?」

 

「やめて~」

 

 うずくまった若葉さんは顔を抑える手にさらに力を入れたのが、手の甲に浮かんだ血管で分かった。その下の若葉さんの顔は耳まで、赤い食紅で着色された私の大好物の『たこさんウインナー』のように真っ赤になっている。人間って、こんなに顔を紅潮させられるものなんだ。

 

「……そんなに嫌がらなくても」

 

 純一君は相当にショックを受けているようだ。

 

 そんな2人を交互に見比べながらけらけら笑っている愛莉さん。ここには確かに、無くしたくない当たり前の日常があった。

 

*     *     *

 

 とりあえず、服の替えがあるわけでもないので、先程濡れてしまったTシャツしか着るものがない。純一君がTシャツをダンゴのようにして丸めて握り、絞っている様子を、愛莉さんは呆れたような目つきで見つめていた。

 

「ちょっと貸してみなさい」

 

 純一君が、Tシャツを絞っても水が一滴も垂れてこないことを確かめてから、シャツを広げようとしているのを見て、愛莉さんが言った。

 

「? 何で?」

 

 と言いながら、まだ団子のようになっているTシャツを愛莉さんに渡す。

 

 愛莉さんがTシャツを一旦広げて四角く畳んで、ぎゅ~っと絞るとさっきは落ちてくる気配もなかった雫がぽたぽたと流れ落ちた。

 

「そらっ」

 

 と、愛莉さんは絞った状態のTシャツを純一君に投げ渡すが、愛莉さんがTシャツを絞る様子に気を取られていた純一君は上手くキャッチできずに取り落とした。

 

 純一君は慌てて拾い上げ、Tシャツを広げてパンパンと仰いで空気を通してから、頭を通した。まだ充分に乾いていないので、袖を通すにも悪戦苦闘だったが、何とか両手もにょきっと突き出た。

 

 ふぅ、と一息ついてから一言。

 

「それにしても、陽村さんって、意外に握力があるんだな」

 

 ぴくっ、と愛莉さんのこめかみが引きつったような感じがした。

 

「……」

 

 愛莉さんは私の首筋を掴んで自分のところにひきよせると、私の尻尾を掴んで、

 

「雑巾を絞るときは、横じゃなくて縦に向けて絞るの! ましてやあんたみたいに、ダンゴにして絞らない!」

 

 私の尻尾で雑巾を絞る実演しながら純一君に説教する。尻尾はそんなに痛くないけれど、むずむずして気持ちが悪い。

 

「うぅ……。覚えておきます」

 

 

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