雪の残り【50】


 

「落ち着いて! もう大丈夫だから」

 

 若葉さんが必死で少年に呼び掛ける。若葉さんも、自分の体勢を維持するのがやっとなのが見て取れた。とても、こちらに戻って来る余裕はないだろう。誤って体勢を崩したら一巻の終わりだ。一緒にまとめて溺れる羽目になるだろう。

 

「待ってろ! すぐに行く」

 

 額に脂汗を浮かべ、瞳には恐怖の色を浮かべた純一君は僅かな逡巡の後、意を決して足を水の中につけた。ところが 入るなり、池の底の泥か水草にかは分からないが、足を取られてよろめいて膝をついた。

 

 そうこうしている間にも、事態は刻々と悪化しており、このままでは若葉さんまで巻き込まれて溺れるのは時間の問題に思えた。若葉さんは、何とか少年を落ち着かせようと声を張り上げているが、一旦パニックに陥るとなかなか回復できないものだ。

 

 私は、5年前に孝樹君がそうしたように、対岸の資材置き場まで走っていこうと腹を決めた。話せることがばれたら酷い目に遭うかもしれないけれど、それでも命には代えられない!

 

 その時、凛とした女性の声が響いた。

 

「やめなさい! 水に入るな!」

 

「陽村さん……何でここに?」

 

 緑色のキャミソールの上に白いショートジャケットを羽織った愛莉さんの姿を捉えて、片足を池の水に浸けたままの純一君が驚いた声を上げる。

 

 

「……名城君の代わりよ!」

 

 ショートジャケットを脱ぎながら言う。

 

 愛莉さんがはいたデニム素材のホットパンツから、健康的な脚がすらっと伸びていた。彼女の足元を護っている白にピンクのアクセントが入ったスニーカーを、迷わず水の中に入れると、膝のあたりまで水に沈むところまで前進して、ショートジャケットの袖を握って、

 

「つかまりなさい!」と、反対側の袖を若葉さんに投げた。

 

 若葉さんも、愛莉さんの声に従って手を伸ばすものの、数十センチ届かない。

 

 私は、はらはらしながら、声援を送ることもできず、その様子をただひたすら見守るよりなかった。

 

 愛莉さんは、投げたショートジャケットを一旦引き寄せてから純一君に怒鳴った。

 

「Tシャツを脱いで!」

 

「あ……うん」

 

 慌ててTシャツの裾に手をかけるが、汗で張り付いているのか、かなり脱ぎにくそうだった。それでも悪戦苦闘しながらもなんとかTシャツを脱いで愛莉さんに手渡す。

 

 愛莉さんは、ショートジャケットの袖にTシャツを結びつけて、もう一回若葉さんに向かって投げ渡した。

 

 再び若葉さんが手を伸ばすと、今度は……届いた!

 

 若葉さんの右腕は少年がしがみついて全く動かせない。即席で作られた命綱を左手で掴んで、ゆっくりと手繰る。

 

「よし。慎重に……こっちに来なさい」

 

 愛莉さんも、繋ぎ合せた2枚の衣服を引っ張りながら、細心の注意を払いながら、焦らずに、2人を引き寄せる。少しずつ近づいてくる。岸に近づくにつれ浅くなっていくから、若葉さんの胸元から胴体が少しずつ水面より上に見え始め、やがて腰のあたりが見えてきた。

 

 純一君も、膝まで池に入り込んで、一緒に引き上げられるように手を伸ばした。

 

「君は子供の方を」

 

 愛莉さんが手を伸ばして若葉さんの命綱を握っていた左手首をしっかりと握りしめ、純一君は若葉さんにしがみついていた少年を両手で抱きかかえて持ち上げると、岸に戻り地面に下ろした。

 

 ようやく自由になった若葉さんの右手を、少年を下ろして戻ってきた純一君が掴むと、陽村さんと力を込めて引っ張り上げた。若葉さんは疲れ果てたように、両手と両膝を地面について荒い息を繰り返していた。

 

「……よかった」

 

 私は、少し離れてその様子を眺めていて、無事に若葉さんが池から上がったのを確かめて、ほっと胸をなでおろす。

 

 

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