雪の残り【49】


 

「……これから、どこかに行かないか? もうすぐに、終わるからさ」

 

 望遠鏡の片づけをはじめながら純一君がいう。それに対して、若葉さんはにこやかな笑顔でうなずいて返した。そんなやり取りと見ながら、天を仰いだ。雲ひとつない上天気だ。ムカつくくらいの上天気だ。

 

 そんなふうに思う理由の一つが、孝樹君は今この町にはいないことにあるのだろう。彼は今、この町から何百kmも離れた町で、戦いに備えている。18日に200m、22日が100mのレースがあるのだという。

 

 それなのに、孝樹君がいないうちに、このような話が進んでいってしまっていることに何だか妙な不満を感じて仕方なかった。別に、純一君と若葉さんがどうという話ではなく、そこで孝樹君が蚊帳の外になってしまっていることへの不満だった。

 

 片付けを終えた純一君は、しばらく望遠鏡や観測機材やらをどこかに運ぶために一旦公園を離れて行き、しばらくしてから何も持たずに戻ってきた。

 

「おぅ! お前も一緒に来いよ」

 

 2人で行き先を話し合い、どうやらまとまったらしい。私は、純一君が私を呼ぶと、手をつないで2人歩きはじめるのを、少し引いて見つめていた。たわいないお喋りを楽しそうにしているのを見るのは複雑な思いだった。

 

 ここが、あの用水池のすぐ近くだということも、そんな思いを抱いた理由だったのかもしれない。

 

 5年前に、ここであの事故が起きなければ……。

 

「ねぇ、何か聞こえない?」

 

 若葉さんが突然足を止めた。

 

「へ?」

 

 純一君も一緒に足を止めたけれど、目を白黒させたところをみると、純一君には何も聞こえないのだろう。私にも聞こえなかった。しかし、若葉さんには核心があるらしく、微細な物音も漏らさないように両手を耳に当てて、聴覚に神経を集中させた。

 

「子供の……悲鳴だ」

 

 そして、いきなり駆け出したのを、純一君が慌ててその後を追う。用水池のところまで駆けてくると、助けを求める子供の声がはっきりと聞こえていた。

 

 用水池の周りにはフェンスが張り巡らされており、『立ち入り禁止』と黄色の看板に黒くて太い文字ではっきり書かれている。しかし、2mほどの高さのフェンスの上には有刺鉄線が張っているわけでもなく、その気になれば子供でも簡単に乗り越えられる代物だった。

 

 5年前のあの日から変わっていないのに違いない。

 

 若葉さんは迷わずジャンプしてフェンスの上に手をかけると、ひらりと飛び越えた。さすがは運動部員。運動神経が違う。若葉さんに遅れて金網に足をかけながら必死でよじ登る純一君の背中から肩をつたってフェンスに飛び乗り、ひらりと地面に飛び降りた。

 

 純一君も何とか続いて、もたもたどさっ! と何とか着地。その時には若葉さんはとっくに用水池の中に足を踏み入れていた。

 

 私は一瞬、何かに違和感を感じた。若葉さんが踏み込んだことで出来た水面の波紋の広がり方が、何だか不自然に感じたのだ。しかし、そんなことを気にしている場合ではなかった。

 

 透明度の全くない濁った池の水の中で、水面を必死で叩いている少年に向かって、若葉さんが近付いて行く。少年が溺れているところは岸から5mくらいはあるだろうか? とても近そうに見えるけれど、とても遠い距離。この距離は、今は命までの距離だった。

 

 池は思ったよりも深いようだった。いや、深かった。水面は彼女の肩よりも高く、顎に当たっている。さらに、歩くのもかなり難しそうだ。おそらくは、池の底には柔らかい泥がたまっていて、動きを鈍らせているのだろう。それでもようやく、少年の元にたどり着いた。

 

「……!」

 

 私は思わず息をのむ。助けを求めてもがいていた少年が、そのまま若葉さんに抱きついて来たのだ。そのため若葉さんも、池の中で全く身動きが取れなくなってしまった。

 

 

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