雪の残り【46】


 

「……これで……いいか?」

 

 何かを恐れているような、孝樹君の問い。

 

「速いね。……あっという間だ」

 

 若葉さんの声も、微かに震えていた。

 

 若葉さんは、かける言葉を用意していたはずで、言いたかったのはそんな言葉ではなかったはずだ。でも、孝樹君には充分に伝わっている……私はそう思った。そして、2人には、最初からこれで充分だったのだと、遅ればせながら気づいた。

 

「5年以上かかってしまったな。あれから……」

 

「お互いに、すぐ目の前にいたのにね」

 

 何度も言うようだけれど、私からは孝樹君の姿も、若葉さんの姿も、見ることはできない。しかし、2人の間にあった、見えない壁と言うか、隙間と言うか、愛莉さんが言うところの、雪の残りは融けて消えてなくなってしまったのだろう。

 

「……私の聞いた話では……」

 

 愛莉さんが私を抱えあげながら囁いた。その声は、とても人に向かって話しかけるようなものではなかったから、部長さんに言ったではなく、私に言ったのか独り言だったのだろうと思う。

 

「名城君と藤崎さんは、幼馴染の同い年の友達というよりは、名城君の方がちょっと年上の、仲のいい兄妹という感じだったそうよ。事故の後、藤崎さんが……名城君がどんなに謝っても赦さなかったのは、怒っていたからというよりも、少し“お兄ちゃん”を困らせてやろうっていう程度だったのかもしれないね。……その結果が、クラス全員による名城君へのいじめに発展して、一番戸惑ったのは藤崎さん自身だったのかもしれない。……まぁ、全部私の憶測だけれど」

 

 ――ひゃぁぁぁ!

 

 プールの方から聞こえてきた何かを沈めるような激しい水音と悲鳴みたいな声。

 

「おのれは、後先考えて行動する癖をつけろと何度言ったらわかるんだ! 制服も髪もびしょ濡れにして、どうやって帰るつもりだ」

 

「髪がびしょ濡れになったのは孝ちゃんが今プールに沈めたからじゃないか!」

 

「まだ言うか。この口は」

 

「横暴だー!」

 

 ……。

 

 ……。

 

 さっきまでとは雰囲気の違うそんなやり取りを聞きながら、愛莉さんが嘆息したように聞こえた。抱きかかえられた私の方からではその表情は見えないけれど、その割に笑っているような気配も感じるから不思議だ。

 

 2人の間の雪の残りは、確かに今、融けてしまったのだと、ようやく確信できた。

 

「部長さん。終わったみたいなんでさっさと追い出しましょう? 何だかムカつくので」

 

「お……おぅ」

 

 やけに凄みのある声で部長さんをプールサイドに追い払った愛莉さんは、細く息を吐き出した。私にはそれが、安堵のように思えた。

 

 しかし、5年間だ。そんなに長い間、捨てようにも捨てきれなかった雪の残り――あの日へのわだかまりが、こんなに簡単に消え去ってしまうのは、なんだか釈然としない部分もある。

 

「あの2人はさ、特別なんだよ。きっと、たまたま近くに生まれた幼馴染なんかじゃない。神様が、幼馴染って形で引き合わせた2人なんだ。調べてて分かったんだ。2人は特別なんだって。ほんの一歩、お互いに歩み寄りさえすれば、あのくらいのことは簡単に、過去の話にしてしまえるくらい……」

 

 愛莉さんの台詞に、私はびっくり仰天してしまう。私は、無意識のうちに言葉を発してしまっていただろうか。彼女は私の心を読めるのだろうか。……もちろん、そのどちらでもないのだけれど。

 

 愛莉さんは以前、時々動物が人間の言っていることが分かるような反応をする時があると言っていたけれど、人間もまた私たちの思っていることが分かっているかのような反応をするものだ。

 

 しかし……。部長さんの手を借りながらプールから上がってくる若葉さんを見ながら、本当にこれでよかったのだろうか……と愛莉さんのことを思った。

 

「大丈夫だよ。私は……」

 

 と呟いた愛莉さんの、私を抱えている細い二の腕が、ぎゅぅ~! っと締めつけられた。さらに首の下の首輪も連動して締め上げられるような感じだ。愛莉さん! 苦しい! 苦しい! ギブ! ギブギブ!

 

 私は、声にならない悲鳴を上げながら、愛莉さんの腕を小さな前足で何度も叩いた。

 

 

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