雪の残り【44】


  

 先日の孝樹君の「友達でいたいと思ったことを後悔している」なんて発言や、昼前のことがあったので、彼女がどうしてここにいるのか、その真意を測りかねた。

 

「……出来ればあんたも入らないでほしいんだけれどな。まぁ……もう、水泳部の練習は終わっているし、入るなとも言えないんだが」

 

 若葉さんに声をかけてきた男子生徒に見覚えがあった。トレーナー姿のやたらとガタイのいい生徒は、確か、終業式の日に見た水泳部の部長さんである。

 

 プールにいるのは孝樹君だけのようだった。先日と同じ右端の第8レーン。プールから、飛沫があがるのが分かる。しばらくして、ざばあっという音を立ててプールから上がると、呼吸を整える間もなくスタート台から飛び込む。ほんの数分の間にそれを何度も繰り返していた。ぜいぜいと荒い呼吸をしながら、ひたすら泳ぎ続けている姿は、私から見ても、明らかにオーバーワークだと感じるほどの練習量だった。

 

「孝ちゃ……名城君の状態はどうですか?」

 

 若葉さんが心配そうな顔を見せながら部長さんに尋ねる。

 

「……最悪だよ。普段なら当たり前のように出せていたタイムが全然出ない。……ところで、君は誰だ?」

 

「わ……私は」

 

 部長さんは、若葉さんの困った様子を見ながら、「ああ、なるほど」とちょっと頷き勝手に納得したようだった。

 

「あいつは、人に弱さを見せるのを嫌うからな。水泳部の連中も、あんな風にもがいているところを見られるのを嫌がるだろうと、先に引き上げてしまった……。一応、俺は部長だから、独りで練習させるわけにいかないからこうして見ているが……。あいつの試合は18日だから、もう5日ほどしかない。今は、体を休ませて、試合にベストで臨めるように集中力を高めて行かなければいけない時なのに、あいつはただ焦るだけしかできていない……」

 

 部長さんは頭を掻きつつ「こんなこと、他人に言うようなことじゃないんだがな」と付け加えた。それなのに、水泳部からすれば部外者のはずの若葉さんにこんなことを言ってしまったのは、部長さんも見ているのが辛かったのだろう。

 

 私は、プールには入るなという若葉さんの言葉に従って、隣の部屋からは一歩も中には入らなかった。真打ちがそこにいる今、一番部外者の私に挟める言葉など、どこにもない。

 

 若葉さんは、すたすたとスタート台の方に歩いて行き、水から上がった孝樹君に、「孝ちゃん!」と声をかけた。声を張ったせいもあっただろうし、そこが密閉されていてよく響いたということもあって、耳にびーんと痛みが走るような鋭い声だった。

 

「いい加減にしなさい! これ以上やったら、本当に身体を壊しちゃうよ」

 

「お前……何しに来たんだよ」

 

 と言い返したその声は普段のような力強い声ではなかった。スタート台に上がろうとした孝樹君に、若葉さんは文字通りすがりつく。

 

「もうやめようよ。焦ったってどうにもならないよ。本番で、全力を尽くせばそれでいいじゃない!」

 

「本番で、最高の泳ぎができるために練習しているんだ! その時の全力を尽くせばいいなんて、ただの言い訳だよ」

 

 疲れきっているからそんな声しか出せないのか、先日のような人に突き刺すような声ではないし、叫ぶような声ではない。しかし、若葉さんの忠告を受け入れる意思がないことも確かだった。孝樹君は薄いブルーのゴーグルを額に上げて、孝樹君を掴んだ若葉さんの手をひきはがした。

 

「だからって……怪我をして出れなくなったら本末転倒じゃない」

 

「本番で、力を出し切れないで終わるくらいなら、怪我をして出られない方がよほどましだ!」

 

 若葉さんが絶句したので異様なほどプールが静まり返った。「おいおい」と部長さんが呟くのが私の耳に届いた。

 

 どれくらい、その息詰まるような沈黙が続いただろう。5分……10分……1時間? 多分、ほんの数十秒のことだったはずだけど……。 

 

 

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