雪の残り【39】


   

 しかし、

 

「孝ちゃんのことを嫌わないでよ……」

 

 と、続けたことが、今度は純一君にとっての禁忌に触れたようだった。プチンっ! と何かが弾けたような、切れたような、そんな音が聞こえたような気がした。

 

「ふざけるなっ! 僕は、あんな奴、大嫌いだ!」

 

 純一君は叫んで、若葉さんの両肩に両手を伸ばして掴んだ。

 

「何であいつなんだ! 何でだよ! 何で……!」

 

 ヒステリックに叫んで、若葉さんを前後に激しく揺さぶった。私は止めるべきだと思ったけれど、その剣幕に動けなかった。

 

「ちょ……ちょっと! 森上!」

 

「僕は、藤崎の事がずっと好きだったんだ!」

 

「へ……?」

 

 時間が止まったような不思議な沈黙が辺りを支配した。

 

 若葉さんは、一体何を言われたのか分からない、という顔をしていた。それと同時に、純一君の顔にも、やっちまった……という表情が張り付いていた。

 

 しかし、すぐに意を決したような表情に変わった。

 

「いつまでも、藤崎があんな奴に縛られているのが我慢できない。昔、不幸な出来事はあったかもしれないけれど、そのための贖罪を、どうしていつまでも続けなければならないんだ! どうして、君だけが、その憎しみをぶつけられなければならないんだ! もういいじゃないか! 名城のことなんか忘れてしまえ! いつまでも……バカみたいじゃないか!」

 

 今までずっと腹の中でため続けてきた思いを全て吐き出して、何だか純一君は風船みたいにしぼんでしまったようにも見える。

 

「僕と、付き合ってほしい」

 

 若葉さんが純一君の手を払い、視線を逸らした。返事はなく、それが、拒絶のようにしか、私には見えなかった。

 

 若葉さんは、一言も言葉を発することなく、ぺこりと頭を下げた。スポーツをしやすいようにとショートカットに切りそろえられた髪が、ふわりと揺れた。

 

 若葉さんもその場を去ってしまうと、純一君と私だけになった。

 

「やっちまった……かな」

 

 用水池を見下ろしながら呟く純一君。私は、とりあえず慰めの言葉を口にした。

 

「多分、最悪なタイミングだったと思うよ」

 

 あれ? 慰めになってない。さらに言葉を探そうとするけれど、やっぱり見つけられない。言葉はとても便利なものだと思っていたけれど、正しい言葉を使うのは、なんて難しいことなのだろう。

 

「何でこのタイミングで言っちまうかな……」

 

 私には……と口にしかけた言葉を飲み込んだ。最悪だったのは孝樹君のことを嫌いだといった後で告白したことだと思ったけれど、それを口にして、さらに認めてしまったら、純一君の負けも同然だ。

 

「お~い。君たち」

 

 その時、用水池から道を挟んで反対側の作業場から、大柄のおじさんが出てきた。ヘルメットをかぶって、陽に焼けた髭面が何だか怖い。

 

 そのおじさんは、見た目とは違う優しい声で、純一君に話しかけてきた。

 

「さっき、名城君を見たような気がしていたんだけれど……どこか行っちゃったかい?」

 

「ええ……少し前に帰りました」

 

 俯いたままで純一君は答えた。

 

「そっか」

 

 右手でヘルメットの顎紐をいじるおじさんの左手には何かが入ったビニール袋が下げられていた。

 

「……名城の知り合いですか?」

 

「ああ。何年か前に、ここで、小学生が溺れた事故があったのを知っているかい?」

 

「え……ええ」

 

 知っているも何も、つい先程までその話をしていたところだ。

 

「名城君も、その現場に居合わせてね。あんときはびっくりしたよ。血相変えて飛び込んできて。『友達が溺れているんです。助けてください』って……」

 

 

 私はその時の様子を想像しようとしたけれど、今の孝樹君を知っていると、彼が慌てたりパニックになったりしている姿というのはあまり想像できなかった。

 

 

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