雪の残り【35】


   

 よくよく考えると、愛莉さんが孝樹君のことを好きなことを知らない純一君にとっては、愛莉さんにとっての“利”が一体何なのか分かっていないだろう。純一君はすっと伸ばした人差し指を口元に当ててウィンク一つして出ていく愛莉さんを、純一君は不審の色を顔全体に広げて見送った。

 

 私は愛莉さんがいなくなってから気がついた。さっきの人差し指を口元に充ててウィンクした仕草は、あの時、裏庭で私に向けてしたものだ。今のウィンクは、私に向けられたものだったのだと、ようやく思い至った。

 

 愛莉さんが出ていって、扉の閉まる音が聞こえると、部屋の中は急に静かになったような気がした。天井から生温かい風が吹き出してくる音や、パソコンが動く音は、微かな筈なのに静かになった部屋の中で異様に響いて聞こえる。

 

「2人は病気か……」

 

 椅子に深く腰かけなおした純一君は、背もたれに体重を預け顔を上に向けると、白い天井に手を伸ばして、じっと考え込み始めた。つられて私も天井を見ると、真っ白い蛍光灯の光を直接目にしてしまい、慌てて前足で顔を覆った。光が目に焼き付いてしまって気持ち悪く、私は何度も瞬きした。

 

 しかし、純一君はそんな私の様子に気づくこともなく、ただ沈思し続けていた。

 

 だから、ようやく私の見える景色から、違和感がなくなってきたころに漏らした純一君の呟きは、私に向けられたものでも、この場にはいない愛莉さんに向けられたものでもなかったはずだ。

 

「それは違うよ、陽村さん。あなたは、あの時のあの顔を知らないから言えるんだよ」

 

 あの時……。その言葉を引き金にして、私は、純一君が取っているポーズが過去の出来事と重なっていく不思議な感覚にとらわれていた。

 

 あれはいつの事だったのか……。夏休みが始まる少し前だ。私はあの時いろんなことを知らなかった。愛莉さんが孝樹君を好きなことを知らなかった。孝樹君が意外に優しいと知らなかった。そして、孝樹君と若葉さんの間にあった因縁を知らなかった。あの時知らなかった色々なことを、今の私は知っている。

 

 あの時、そこには、純一君と若葉さん、それに私もいた。手の届かない存在を追いかけるのを好きだと孝樹君が語っていた、と語った若葉さんの、あのどこか悲しそうで儚≪はかな≫げで、それでいてとんでもなく可愛らしかった微笑は、純一君のみならず、私にとっても忘れ難い顔だった。

 

 若葉さんの笑顔が、いつか純一君に向けられるといいなと思っているのは私の本心だけれど、同時に孝樹君と若葉さんが仲直りしてほしいと思っているのも、若葉さんと孝樹君が素直に何の蟠≪わだかま≫りもなく付き合えるようになればいいなと思っているのも、確かなのだった。

 

*     *     *

 

 夏休みに入ってから雨が降った日を私は知らない。今日も一日暑くなりそうな朝だったけれど、純一君に誘われて、久しぶりに学園の外に出た。

 

 初めて入れられたバスケットは思ったよりも心地が良かった。適度に揺れる振動が睡魔を誘い、ついつい、うとうとと居眠りし始めてしまいそうになるのを、意地でも寝るものかと大きく眼≪まなこ≫をこじ開ける。

 

 けれど、すぐに、うとうと~。

 

「着いたぞ」

 

 純一君の声がした時は、もはや閉じかかっていた瞼≪まぶた≫を無理やり開こうという気力は失せていた。でも、外に出て新鮮な空気を吸ったらすぐに眠気はどこかへ飛んでいってしまうのが不思議だった。

 

 そこは、たいして広くはないけれど、滑り台やブランコ、鉄棒のような一応の遊具が揃った小さな公園である。

 

 夏休み前に、純一君に聞いた太陽観測の様子を見せてもらうために来たのだった。

 

「ファインダーにはキャップをしているけれど、絶対に覗くんじゃないぞ」

 

 キャップの着いた部分を指差しながら純一君が説明する。夜中に月や星などを見る時は、ここから覗くんだそうだ。

 

 

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