皇帝の高い買い物【3章-19】


 生まれて初めて死にたくないと思った。

 

 リキリウスは死に対して何かを期待していた。死ねば終わりになる。否、死ねば何かが始まるのかもしれない。しかし、自ら命を絶つことでそれを得られるとは思えなかった。意味のある死でなければならないと考えていた。

 

 意味のある死。それは自分より強い者に殺されること。少なくとも、深い地の底で、実体を持たない死霊どもに殺されたくはなかった。

 

 自分に群がってくる死霊どもから逃れようと、近くに自分の背の高さくらいの“それ“にすがりついた。

 

“それ”が何なのか咄嗟に分からなかった。だが、なぜかは分からないが、死霊どもは“それ“には近付いてこなかった。

 

 ようやく、落ち着きを取り戻したリキリウスは、“それ”に向けて松明を向けた。松明の炎に照らし出された“それ”は大きな鏡だった。大きな鏡だった物という方が近い。それは鏡としての役割は果たしていなかった。つるつるだったであろう表面はざらざらしていた。表面の汚れは長年こんなところに置かれていたための錆だろうか。それがかつて鏡であった名残として、松明の光を反射する部分が僅かに残っていた。

 

 鏡の表面を覆ったざらざらした感触が、不意に切られた感触に変わった。錆で手が切れたと気づいたその時、今度は錆まみれの鏡の中から何かが浮き上がってきた。

 

 それは人間の手。

 

 真っ赤な血で染まっていた。

 

 それは、人殺しの手。

 

 血の色と匂いが染みついて、もはや消えることのない、凶悪な掌。

 

 いつの間にか、リキリウスは鮮血で染まった自分の手をじっと見つめていた。これは人殺しの手だが、今自分の手を濡らしているのは、自分自身の血だ。

 

 ふと、顔を上げると、死霊の中に紛れて、こちらに近づいてくるユリアヌス帝の姿があった。顎を上に向けて、声を立てることもなくこちらへ近づいてくる。

 

 このまま、ここにいたら自分もああなる。

 

 リキリウスは意を決した。この場から、何がなんても逃げのびてやる。リキリウスは力いっぱい鏡を蹴り倒した。倒れた瞬間、硬質の音を立てて鏡が割れて砕け散った。

 

 その音に驚いたのか、死霊たちが怯んだように見えた。

 

 リキリウスは、その瞬間走り出す。

 

 しかし、その動きを塞ぐように死霊たちがリキリウスの行く手を塞ぐ。リキリウスは、あっという間に死霊どもに取り囲まれた。

 

「来るな……寄るな……来るなぁ!!」

 

 絶叫を上げたリキリウスは、無数の死霊たちに覆い尽くされた。

 

 

*     *     *

 

 リキリウスは暗い空を仰向けに寝転がったままで見上げて呟いた。何度も深呼吸を繰り返すが、未だに肺の中に地下の淀んだ空気が残っているような気がして仕方ない。吐き気がする。

 

「空気がこんなに旨いとは知らなかった」

 

 あれからどれだけの時間が過ぎたのか。とてつもなく長い時間だったような気がするものの、地上に残した2人の護衛兵によれば、それほどの時間ではなかったとのことだった。

 

 ほんの少し離れた所には地底への穴がぽっかりと口を開けたままで残っていた。ユリアヌス帝もリキリウスの横で、同じように寝転がっていた。ユリアヌス帝の意識はまだ戻っていなかった。

 

「この穴の底には何があったのですか?」

 

 護衛兵の一人がリキリウスに尋ねた。

 

「懐かしい顔に会った」

 

 とリキリウスは答えた。

 

 地下で起きたことを懇切丁寧に伝える気力はなかった。

 

「やはり、この地下は冥府へと通じていたのですか?」

 

「鏡を割った」

 

 リキリウスは兵士の問いには答えなかった。

 

「その後は何が起こったのか分からない。ただ、がむしゃらに暴れ回って……気がついたらここにいた。とりあえず……陛下を連れて帰れたのは幸いだ」

 

 未だ寝転がったままのリキリウスは横を向いてユリアヌス帝を見て呟く。実際、あの穴の中で、最後に何があったのか、リキリウス自身もよく覚えていなかった。よく、そんな状況で、あの状態のユリアヌス帝を抱えて駆けあがってこれたものだと思う。

 

「こんな話を聞いたことがある。ある占い師の話だ。その占い師は、地下から湧き出してくる蒸気の匂いを嗅ぐことで、一種のトランス状態に陥り、その中で人知を超えた予言をするのだそうだ」

 

「その蒸気とは麻薬のようなものですか?」

 

 

「さあな。俺には詳しいことは分からんが、あるいはこの地下にはそういったのと同種の幻覚作用を持った気体が充満しているのかもしれん……と思っただけさ。そして充満した気体の圧力には地下への封印として置かれたあの彫像を跳ね上げるほどの力があるのかもしれん」

  

 

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