宮廷からもユリアヌス帝に見切りをつけて逃げ出すものが後を絶たず、近付く者はせいぜいレペンティヌスとラエトゥスくらいという有様なのだ。
「そろそろ……俺も年貢の納め時か」
リキリウスはふっと自嘲めいた笑みを浮かべて、腰に下げたグラディウスを抜いた。何故だか、いつもよりも重く感じた。念入りに研いだ刃の切っ先を水平に構え、中庭に向けてぐっと突き出す。
突き出した姿勢のままで、しばらくそのまま動きを制止した。両刃の先端が月光を受けてきらめいた。
刃の先に何を見るか。
それは敵――。
命を奪うべき敵――。
それなのに、今の自分には何も見えない。
* * *
ユリアヌスは一人、暗い自室の中で両手を組んで考え続けていた。
……どうしてこうなった?
自信はあったのだ。立派に皇帝としての職務を全うし、その責任を果たし、ローマの混乱に終止符を打ち、全てのローマ市民に安定と幸福をもたらす、自信が。
セウェルスが、アルビヌスが、ニゲルが……反旗を翻したりさえしなければ。
ローマ市民が自分の皇位就任を快く承認してくれたなら。
元老院が、そのための後押しをしてくれたなら。
そして、そうならなかった理由を探すとするならば、全てはあの3月28日の夜に起因する。あれからまだふた月と経っていないのに、何十年と経った気がする。あの時燃え上がった皇帝への執着心が、あらゆる災厄の始まりだったのだ。
いや――。
始まりというのなら、ペルディナクス帝の死にこそある。そして、始まりの始まりを求めるのなら、全てはコンモドゥス帝が死んだあの時に始まっているのだ。
そして、その2人の皇帝の死に深く関わり、策動の中心として動いていた男が、ユリアヌスのそばにも一人いる。
近衛軍団長官ラエトゥス――。
そんなことを一瞬考えたユリアヌスは、一寸先も見通すことができない闇を見上げて、「何を馬鹿なことを」と呟いた。今更責任の所在云々を言っても仕方がないことではないか。
……そろそろ、潮時……か。
ユリアヌスが机の上に手を置くと、何か固い物が手に触れた。机の上に置きっぱなしにしていた十字の形をしたそれを取り上げた瞬間、いつぞやに聞いた声が耳の中に蘇ってきた。
……力が、欲しいか?
もし、今同じ問いをされたら何と答えるだろう。あの時と同じように刎ねつけられうだろうか?
それは無理だとユリアヌスは結論する。今となっては自分とローマを守ることができるのは、力だけだ。圧倒的な力に侵されようとしているローマを守ることができるのは、それ以上の力だけなのだ。
その力を与えてくれるというのなら、悪魔にでも魂を売ろう。
* * *
宮廷の執務室にユリアヌスはラエトゥスを呼び出した。再度近衛軍団をセウェルスにぶつけるためである。破竹の勢いでローマへと侵攻してくるセウェルスに講和の席に着かせるには、最低限一度は強烈なダメージを与えておく必要があるからだ。
部屋の中にいるのはユリアヌスとラエトゥス、それにリキリウスの3人だけで、秘書官も同席させていなかった。ラエトゥスは部屋の中央で、リキリウスは出入り口付近で、直立不動の体勢をとっている。ユリアヌスは落ち着きなく歩き回りながらラエトゥスに、軍の再編と速やかな出撃の指示を出した。
しかし――、
「お断りいたします」
ラエトゥスは僅かに唇を歪ませて、はっきりとそう言った。
「何だと」
ユリアヌスは不思議と怒りを感じなかった。ほぼ予想通りの返答だったから落胆はあっても、それ以上の感情は湧いてこなかった。
「これ以上、近衛軍団をセウェルスの軍にぶつけても、意味のないことかと存じます」
「このまま、セウェルスの軍にローマを蹂躙されても、貴様は何とも感じないのか」
「私は部下の命を預かっております。勝ち目のない戦場に配下の兵を送り出して、みすみす命を落とさせるわけにはまいりません」
ユリアヌスは怒りを込めてラエトゥスを睨みつけた。
今更この男の動向をつべこべ言っても仕方のないことではある。目の前の近衛軍団長は、とっくに自分に見切りをつけたのだと分かっている。今、この男の頭の中にあるのは、我が身の保身だけだ。
「では、近衛軍団長として、これからどうすればよい、と?」
「降伏か、あるいはローマを離れて体制を整えられるがる良策かと」
「エジプトにでも逃げるか」
心底からの嫌みを込めてラエトゥスに言葉をぶつける。エジプトはラエトゥスが常々配属を希望していた豊かな属州である。その言葉の意味に気付いたラエトゥスは一瞬顔をしかめたが、すぐに表情を戻した。
それに気付きながらユリアヌスは言葉を続ける。
▼あなたのクリックが創作の励みになります。▼