皇帝の高い買い物【3章-12】


「陛下!」

 

 リキリウスからやや遅れて数人の護衛兵がなだれ込み、そこで見たのは食卓を囲み立ち上がっているのはユリアヌス帝の側には娘のクララと娘婿のレペンティヌの姿。床の上に四つん這いになった皇帝の姿と、その傍らでは奥方のスカンティッラが背中をさすっている。

 

 ユリアヌス帝は荒い息をしているが、意識はあるようだ。床に落ちた吐しゃ物と、皿ごと落ちたのであろう料理の残骸が散らばっていた。

 

「陛下……御無事ですか」

 

「平気だ……だが、何者かが私を毒殺しようとしたのだ。リキリウス! 料理人を捕まえて早く背後関係を吐かせるのだ」

 

 それから、娘婿のレペンティヌスの方に視線をやって、

 

「レペンティヌス、お前もか? お前も私を殺そうとしたのか?」

 

 レペンティヌスは慌てて首を左右に振った。

 

「何かの間違いでは……」

 

 さらに、集まった面々を一人一人見ながら、

 

「お前もか? お前たちもか?」

 

 と怒りの籠った震える声で問いただす。その中にはリキリウスも含まれていた。誰も、首を縦に振る者などいはしない。

 

 リキリウスは努めて冷静に振る舞うように意識しながら、まずは脇でその光景を見つめているレペンティヌスにちらりと目を向けた。蒼白となったその表情から、嘘をついている様子は読み取れなかった。それから、「失礼します」と落ちた皿を拾い縁に残ったスープに口をつけた。確かにツンとした特有の匂いがある。

 

 口に含んだ瞬間、ピリッとした特有の刺激が舌先に走った。

 

「奥方様……」

 

 リキリウスは皇帝の傍らにしゃがみこんだスカンティッラに目を向けた。

 

「少々……生姜が利きすぎのようですね」

 

「陛下がお疲れのようなので、料理人に少し多めに入れるように命じたのです」

 

 生姜は中国が原産地だが、その高い薬効はローマにも伝わっていた。残念ながらヨーロッパは生姜の栽培には適さなかったためにその多くが輸入に頼っており、胡椒にも匹敵する高級品であった。

 

 食べ慣れない食材であったにしても――相当に神経が参っているようだとリキリウスは考えた。それと同時に、猜疑心の塊となっているユリアヌス帝に、ただの慣れない食材だと伝えても無意味のように思えた。

 

 だから、料理人を拘束するように配下の兵士に命じた。

 

 そして、落ち着かせるために、

 

「陛下は寝室に。医師を呼びましょう……」

 

 とリキリウスは勧めた。

 

「医者はいらん……誰もいらん……誰も近付くな」

 

 ユリアヌス帝は立ち上がり、そう言葉を吐き捨てながら首を左右に振った。

 

「目の前の誰かが、自分の命を狙っていると怖れながら会うのなら、誰とも会わない方がいい……」

 

*     *     *

 

 陛下は限界だ……。

 

 リキリウスは宮殿の中庭の見える廊下を歩きながら一人呟く。ユリアヌス帝の命を狙った動きは結局のところ、先の暗殺の一件以降、具体的なものは何一つなく、その背後関係は不明なままであった。

 

 市中では首都防衛隊と近衛軍団によって戒厳状態に置かれていた。不審者は容赦なく摘発された。これらはレペンティヌスとラエトゥスの指揮のもとに行われたものだった。

 

 ローマは壊れ始めていた。

 

 ローマを守る多くの兵たちの規律が乱れ始めているのは噂で聞いた。兵士たちは恐れていた。自分たちの組織はユリアヌス帝に肩入れし過ぎているのではないか、と。セウェルスがローマに入れば、ユリアヌス帝に近いものは容赦なく糾弾されるのではないか。粛清の対象とされるのではないか、と。

 

 セウェルスを恐れるがあまりに、ローマ市民への威嚇行動はさらに激しさを増すという悪循環であった。

 

 そして、ローマに迫るセウェルスの軍への対応に忙殺されるユリアヌス帝には、そのようなことに神経を裂く余裕など無く、兵士たちの傍若無人な行動に誰も歯止めを効かせることもできず、放置され続けていた。その結果、ユリアヌス帝への低い支持はさらに下がっていた。

  

「今のローマはもはやローマではないのかもしれない。今の帝国はもはや帝国ではないのかもしれない」

  

 リキリウスは何気なく呟き、中庭に目を向けた。月明かりに、いつぞや動かされた地下への封印である月の女神ディアーナの彫像が照らしだされていた。結局、これを動かしたのが何者なのかもわからずじまいになりそうだった。

 

 

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