皇帝の高い買い物【3章-11】


 セウェルスの動きは素早かった。約2万の戦力だけを連れて一路ローマに向かうのである。

 

「いつローマに来るのか……」

 

 宮廷の軍事顧問の意見は、最速ならばおそらく一月足らずであろう、というものだった。それはユリアヌスの軍経験からの推測ともほぼ一致していた。

 

 しかし、それは兵站を乗せた輸送部隊を率いずにこちらへと向かった場合の話である。セウェルスの動きは速い。だが、イタリア半島の守りを固めれば、セウェルスの軍を孤立させることができるはず。支援を失った戦闘部隊ほど脆い物はない。

 

「奴が次に打つ手は……」

 

 おそらくは元老院の切り崩し。今ごろはユリアヌス派、反ユリアヌス派、日和見を決め込んだ連中と、立場に関わらずセウェルスからの密使が送られ、籠絡工作が進められていることだろう。反ユリアヌス派の元老院議員は小躍りして喜んでいることだろうが……。

 

「そう、うまく事が運ぶと思うな」

 

 ユリアヌスは再び親指の爪を口元に運んだ。

 

*     *     *

 

 セウェルスの軍団はイタリア半島へと迫りつつあった。事ここにいたり、ついにユリアヌス帝は最後の切り札を投入することを決意する。セウェルス軍と近衛軍団との直接決戦である。

 

 結果は聞くまでもないだろう。

 

 セウェルス軍の圧勝であった。近衛軍団は完膚なきまでに叩きのめされ、捕えられた近衛兵たちは容赦なく殺戮された。それは、単に指揮官であるセウェルスがそう命じたから、というだけではなかった。今まで、近衛軍団の風下に立たされ、常に日陰の危険で報われない役割ばかりを押し付けられてきた軍団の、積もり積もった鬱憤を一気に掃おうとするかの如き感情の発露の結果に他ならなかった。

 

 セウェルス軍は破竹の勢いで進撃し、ついにイタリア半島へ侵入した。こうなると、元老院も近衛軍団も右往左往するばかりで有効な手は打てないまま、徒に時間を浪費するのみばかりであった。

 

 セウェルス軍と近衛軍団の戦いは、大きな土産を残していた。それは、セウェルスという敵には決して容赦しないセウェルスという人間の残虐な本性を晒したことであった。

 

 事ここに至り、ようやく日和見の元老院議員たちにも危機感が芽生えた。気付いたのである。自分たちが迎え入れようとしているのは、かつてローマを容赦なく血に染めたスッラにも等しい存在だったのだ、と。同時にディディウス・ユリアヌス帝はスッラのライヴァルであり、同様に粛清の血の雨を降らせたマリウスなどではかったのだ、とも。

 

 しかし、何事も気づいた時には後の祭りである。

 

 彼らに出来るのは、せめて一刻でも早くセウェルスにすり寄り、自分の地位と立場の保証を貰うことのみであった。泥船からは少しでも早く逃げ出すに限る。

 

 もはや政府として機能しなくなってきたローマ皇帝と元老院を見限って、イタリア半島内からもセウェルスの陣営に加わる戦力が出始める。ラヴェンナの海軍がその皮切りだった。イタリア北部の港町ラヴェンナに駐留している海兵は東地中海防衛の中核であった。ローマ帝国最大の海兵が、セウェルスの手中に収まったのである。

 

*     *     *

 

 皇帝の夕食の席で、突如悲鳴が上がった。

 

 部屋の外で警備にあたっていたリキリウスは、弾かれたように部屋の中に飛び込んだ。

 

 もともと質素だったユリアヌス帝の夕食は、最近はさらに静かなものになっていた。セウェルスがローマに迫っている中、皇帝に近づこうという者はいなくなっていたのだ。

 

 リキリウスは配下の兵士たちに命じて、ユリアヌス帝が余程の信頼を置いている者以外には皇帝の身の回りの世話を含めて近付かせないようにしていたし、皇帝の部屋にも近付かせないようにしていた。食事の用意をする料理人にも、素性を調べ、不審なものとの接触がないか調べさせていた。全ては、暗殺を警戒してのことである。

 

 それは、護衛兵にまで徹底されており、ユリアヌス帝にはつかず離れず、異常が起きたらすぐに行動を移せるように体勢を整えつつ別室にて待機、という状況である。

 

 もはや宮廷には活気も賑やかさも失われ、まるで死の館の如き様相を示していた。

 

 それでも今日は、執政官にして娘婿のレペンティヌスが夫婦で訪問しているので、ユリアヌス帝も少しは気がまぎれるだろう……そんなふうに思っている矢先の出来事だった。

 

 だが、それが誤りだった――とリキリウスは思った。

 

 今や元老院において、ユリアヌス帝の味方はレペンティヌスただ一人という状態である。しかし、逆に言えば最も容易く皇帝に接近することができ、暗殺を実行できる人間だということも言えるのだ。

 

 

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