皇帝の高い買い物【2章-3】


 

 ラエトゥスは彼女にそっと囁く。このままでは座して死を待つか、殺《や》られる前に殺《や》るか、選択肢は二つに一つだ。後者を選択するのならば、そのための協力は惜しまないし、暗殺が達成された暁には、無事にローマから逃がすことを約束しよう……。

 

 まずはマルチナに同じく名簿に名前の載っていたエレクトゥスを仲間に引き入れさせる。できれば毒で殺すのが望ましいが、いざとなれば力づくでコンモドゥス帝を殺せる仲間が必要だった。コンモドゥス帝の護衛は近衛軍団であるからラエトゥスの命令一つで無力化することは可能だが、できれば近衛軍団の兵士に皇帝暗殺の命令は出したくない。万一怖気づいてコンモドゥス帝に密告されたら進退窮まることとなる。

 

 ラエトゥスが目をつけた剣闘士上がりのナルキッソスという男は、そういう意味でうってつけだった。腕力があっても、学も知恵もないこの男が金と栄誉で転ぶであろうことは容易に想像がついた。 

 

 そして――暗殺は実行に移された。暗殺が成功した後、宮廷を後にした三人はラエトゥスが用意したこの隠れ家に身を潜めていた。この後のことはラエトゥスが追って指示を出すことになっていたからだ。

 

 これが、リキリウスにラエトゥスによるコンモドゥス帝暗殺の全貌である。ここまでにおいて、リキリウスが果たした役割はせいぜいが伝言役を務めた程度だった。リキリウスの仕事はここからが本番である。

 

 リキリウスは、中に金貨がぎっしりと詰まった麻の袋を三つ、テーブルの上に置いた。ずしんという重量感のある音が、粗末の部屋の中に響く。その袋に真っ先に手をつけたのはマルチナだった。彼女は袋を開け中身を確認すると歓喜の声を上げた。

 

「これを持ってキプロス島あたりに逃げろというのがラエトゥスの指示だ」

 

 リキリウスはそう言って、一歩後ろに下がる。三人でテーブルを囲んでおり、ナルキッソスの後ろ、エレクトゥスの正面に位置取った。マルチナはリキリウスの目から見て右側に立っている。

 

 そして、三人が袋を開き、その莫大な量の金貨に夢中になっているところで、腰に下げたグラディウスを鞘から引き抜いた。普段は長剣を使うリキリウスだが、今回は狭い室内での戦いになるということもあってやや短めの剣を用意していた。

 

「……逃げ場は地獄。地獄には金貨は持ってはいけないか」

 

 リキリウスの呟きは、三人の耳には届かなかっただろうが、タイミングよく顔を上げたエレクトゥスと目があった。リキリウスがグラディウスを引き抜いたのを見て声を上げた――いや、上げようとした。リキリウスはとっさに最初の標的を変更する。悲鳴を上げるよりも一瞬早く、リキリウスの手を離れたグラディウスがエレクトゥスの喉に突き刺さり、テーブルに突っ伏した。その下から、血が流れて拡がっていったので絶命したのは明らかだった。

 

 失敗したな、とリキリウスは思った。力ずくとなった時に一番厄介なのは剣闘士のナルキッソス。だから、最初に後ろからナルキッソスの頸動脈を切り、それからエレクトゥス、マルチナの順で殺していく予定だったのだ。

 

 しかし、何事にもイレギュラーはつきものである。最悪のケースにも対応できるように準備はしてきた。そして剣を失い、一番の強敵に殺意を勘づかれてしまった今の状況は考えられる最悪のケースであることは確かだった。

 

 ぐっと布を巻いた拳を握りしめてナルキッソスに対峙する。

 

「ラエトゥスの野郎……最初から俺らを捨て駒にするつもりだったのか。だが、暗殺者が正面から向き合ったらダメだろ」

 

 ナルキッソスは苦々しく言うとぐっと上体を低く構える。大柄のナルキッソスと痩せ身のリキリウスと比べたら、身長は同じくらいだったが、ナルキッソスの方が一回りも二回りも大きい。腕は丸太のようで、その両腕で絞められたらリキリウスなどトマトのようにぐしゃりと潰されてしまいそうだった。

 

 ちなみにトマトは中南米原産で、ヨーロッパには一六世紀の初めごろに持ち込まれた。リキリウスは死ぬまで無残に潰されたトマトというものを目にする機会はなかった。

 

 

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