皇帝の高い買い物【2章-17】


 

 ユリアヌスは現実から引き戻され、相手が死者などではなく、生きた人間の暗殺者だと悟った。

 

 思考に費やした時間はほんの一瞬。

 

 覆面の暗殺者はグラディウスの剣先を大きく真横に凪いだ。ユリアヌスは高齢とは思えない俊敏な動きで何歩か後ろに下がってそれをかわす。しかし、暗殺者の初太刀をかわしたにすぎない。暗殺者はすぐさま二撃目を打ち込もうとグラディウスを腰だめに構えた。

 

 抵抗しようにも彼の手元には武器らしい武器はなかった。とっさに今の襲撃で火が消えてしまったランプを暗殺者に向かって投げつけた。しかし、大した重量もないランプを、暗殺者はあっさりと片手ではじいてしまった。

 

「死ねぇ!」

 

 暗殺者の構えたグラディウスが、裂帛の如き奇声とともに真っ直ぐに突き出された。その一撃も何とか数歩後ずさって紙一重でかわしたユリアヌスだったが、そのまま足をもつれさせて尻もちをついた。

 

 男がにやりと笑ったのが見えた。

 

 完全に逃げるすべを失い、絶体絶命となったユリアヌスは男に向けて叫んだ。空気がピリピリと震え、男も動きが一瞬止まった。しかし、ユリアヌスはこの時自分が何と言ったのか、自分自身にも分からなかった。

 

 それは、命乞いの言葉だったのか、暗殺者を叱責する言葉だったか。

 

 唯一それを知るのは、目の前で一瞬ひるんだ暗殺者だったが、暗殺者はすぐにユリアヌスに止めを刺そうとグラディウスを振り上げた。思わずユリアヌスは目をつぶる。

 

 しかし、とどめの一撃はいつまでも降ってこなかった。恐る恐る目を開いたユリアヌスが見たのは、グラディウスを振り上げたそのままで膝をついた暗殺者の姿だった。ユリアヌスの眼前で、振り上げられたグラディウスが暗殺者の手を離れ石造りの床に転がった。ガチャンと鉄の剣が落ちる音が異様に響いたように感じた。

 

 膝をついた暗殺者はユリアヌスの正面で上半身をのけ反らせながら倒れた。首の辺りから黒い液体が大きく拡がっていく。鼻につく血液特有の匂いが肺の中に入り込んできた。

 

「元老院からの……刺客……だったのか…・・・?」

 

 ユリアヌスは呆然としながら呟いた。ついに始まった、と思った。これまで、燻っているだけだった反ユリアヌス帝の火種が、暗殺未遂という具体的な炎となって目の前に現出したのだ。

 

 理由は分かっている。セウェルスの造反が、反ユリアヌス派に力を与えたのだ。ここまでは近衛軍団という圧倒的な軍事力を味方につけたユリアヌスに対抗できる者はいなかったが、軍事的に対抗できる勢力の出現が、パワーバランスの崩壊を招いた。

 

「陛下! 御無事ですか?」

 

 駆け寄ってくる男の声は、あの無愛想な護衛隊長の声だった。ユリアヌスはそちらを向いて、リキリウスを含めた3人の衛兵が駆けてくるのを確かめた。

 

「私は大丈夫だ……」

 

 と、小さく頷く。

 

 冷たい石造り床に手を突いて、よいしょと立ち上がると、ユリアヌスはもはや物言わぬ死体となり果てた暗殺者を見下ろした。仰向けに倒れた暗殺者は、大きく目を見開いて死んでいた。その目は、何が起きたか分からないと言っているように思えた。

 

 ユリアヌスは、制止するリキリウスを首を横に振って下がらせると、自分の手で暗殺者の覆面を剥いだ。見覚えのない若い痩せぎすの男だった。覆面を外す時、男の首に短剣が突き刺さってぽたぽたと血が滴っているのが分かった。

 

「この短剣を投げて私を助けてくれたのだな」

 

「それしか、手段がありませんでした。…・・・宮廷を、暗殺者の血で汚してしまい申し訳ありません」

 

「……気にするな」

 

 ユリアヌスの耳に、男の言った「元老院からの贈り物」という言葉が蘇った。元老院が反ユリアヌスに傾いて、その意を受けてユリアヌス排斥に乗り出したのだとしたら、綱渡りのような危ういところで保っていた均衡は、今夜崩れたことになる。これからは、反ユリアヌス勢力との本格的な潰しあいが始まる。

 

 それと同時に、もうひとつ別の可能性がユリアヌスの脳裏をよぎった。もしも、今回の刺客が元老院とは全く異なる勢力からによるものだとしたら。その可能性のある黒幕の一つに思い至った。しかし、それはあまりにも考えたくないことだったので、考えないことにした。

 

 ユリアヌスは暗殺者の瞼に手を置いて、その目を閉じさせた。

 

 しばらくして、異常に気付いた宮殿内が騒がしくなり、ユリアヌスはリキリウスに促される形で自室に戻ろうとした。その時、もう一度倒れた男を見た。もう動くはずもないのに、再び立ち上がって襲ってきそうな錯覚を覚え、背筋にぞくりとするものを感じた。

 

 その時、ふと重要なことを思い出した。

 

「リキリウス」

 

「何でしょうか?」

 

「庭の穴を埋めるように、命じてくれ」

 

「穴?」

 

 ユリアヌスは中庭のほうを指差した。その存在に気付いていなかったらしいリキリウスは、はじかれたように中庭に駆けて行って、驚いたような声を上げた。説明を求めるリキリウスの声をほうって、ユリアヌスは自室へと戻る。

 

 今夜はとにかく疲れた。ベッドで横になってぐっすりと眠りたかった。もう何も考えたくはない。疲れは、嫌な想像を膨らませる効果しかもたらさない。 

  

 この暗殺者が亡霊となって再び現れたらたまらない。

 

 

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