皇帝の高い買い物【2章-13】


 

 そのセウェルスを支援するのは最精鋭のドナウ河流域の軍団を始めとした十二個軍団。総兵力は七万を超えた。

 

 パントニア・スペリオールは後世のオーストリア・ハンガリーの付近に位置する。後世においても、地中海からヨーロッパへの玄関として重要な位置であるが、ローマ帝国の時代においても要所中の要所である。防衛の兵も相応に残していかなければならないから、全軍をローマに向けて進撃させることは出来ない。それでもセウェルスの手元にある戦力はローマ帝国最大であった。

 

「……あの若造が!」

 

 ユリアヌスはぎりりと歯ぎしりして立ち上がった。今だに青ざめた顔をしている秘書官に向かって鋭く怒鳴りつけた。

 

「今すぐに元老院を召集しろ! セウェルスを国家の敵と宣言させるのだ!」

 

 いきなり怒鳴ったせいで頭に血が上ったのだろうか。一瞬で視界が歪んだ。意識が遠くなっていくのを感じた。崩れ落ちる自分の体も、「陛下!」と悲鳴を上げる秘書官の悲鳴も、何か他人事のような、遠い世界の出来事のように感じていた。

 

*     *     *

 

 セウェルスと同じように忠誠宣誓を拒否し、皇帝を自称して動き出した勢力は他にもあった。シリア総督のペスケンニウス・ニゲルとブリタニア総督のクロディウス・アルビヌスである。しかし、彼らの反乱をユリアヌスが知るのはもう少し先のことである。

 

 帝国に、戦乱の足音がひしひしと近付いてきていた。

 

*     *     *

 

 ユリアヌスが目を覚ました時、辺りは真っ暗になっていた。目を凝らしても何も見えず、自分の伸ばした手が闇の中へと吸い込まれていく。小さなランプに火が灯されていたが、その灯りは今にも暗闇に吸い込まれてしまいそうなほど弱々しく、部屋全体を照らせるほどの光源ではなかった。

 

 自分がベッドの上で横たわっていることに気付く。自分が置かれた状況を確認し、最後に自分が倒れたことを思い出した。 

 

「迷惑をかけたな」

 

 と、声をかけたのは、すぐ横に誰かがいるような気配を感じたからだった。ユリアヌスはそれが馴染みの奴隷だと思ったが、返事が返ってこないことを考えると、どうやら間違いであったらしい。

 

 であれば、あの少々愛想の悪いリキリウスであろうか? あるいは、妻のスカンティッラだろうか? しかし、どちらであっても何かしらの返答はありそうなものだ。

 

 ユリアヌスは、ベッドの脇にいる人影の正体を確かめるために身体を起こした。侍従の誰かだろうと思いながら、火のついたランプを取り上げ、そちらへと向けた。その人影がわずかな灯りに照らし出され、その輪郭が露になった。

 

 40歳になるかならないかくらいの、どことなく女性的な顔つき男の顔は、見覚えがあると同時に全く見たことが無い顔だった。だが、確かに見覚えがあるものだった。

 

 誰か――と考え、わずかな思考の後にその顔の持ち主に思い立ったユリアヌスは、あっと声を上げた。

 

「マルクス……オトー……?」

 

 ユリアヌスは呆然としながら呟いた。目の前にいる男――マルクス・オトーは100年以上も昔の皇帝である。ユリアヌスの手元にはオトーが皇帝に就任した時に発行された、彼の顔が打刻されたコインがあったのでその顔は知っていた。ユリアヌスの母方の親戚筋に当たる人物だったから幾枚か残されていたのだった。

 

 ローマ帝国においての通貨の役割は、単純に貨幣としての役割のみにとどまらない。新たな皇帝が誕生すればその横顔が刻まれた通貨が発行され、皇帝からのメッセージが刻まれることもあった。メディアも通信手段も発達していなかったローマ帝国の時代においては、帝国のプロパガンダを発信する、重要な手段だったのである。

 

 僅か3ヶ月しか帝位についていなかったオトーも、就任直後には自らの顔が打刻された通貨を流通させ、国民に新たな皇帝の誕生を知らしめたのであった。

 

 オトーはネロ帝の次の次の皇帝にあたる。ネロ帝が反乱によって追い詰められ、殺害されたのは686月のことだった。オトーはネロの親友であったが、ネロによって自分の妻が寝取られた揚句、自分は後世のポルトガル辺りにあった属州に追い払われてしまう。オトーはこの一件でネロを憎み、追い落としをたくらむようになったと伝えられる。

 

 同時に、オトーは権力志向が強くずる賢い男だった、とも伝えられる。ローマにあった時にはネロの第一の親友となるために彼とともに放蕩し、一説では肉体関係もあったと噂されるほど親密な関係を築き、逆に属州に追い払われてからはローマにいた時からは想像もつかないほどに職務に専念し善政を敷いて、属州民からは名統治者と讃えられた――そのような、自らにとって最善を選択し、状況に合わせて使い分けができる、悪く言えば狡猾な人物であった。

 

 

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