皇帝の高い買い物【1章-9】


   

 今にも門を開けようとする者と、それを食い止めようとする者の間で小競り合いにまで発展し、近衛軍団同士での斬り合いにまで発展しそうになっているというのだ。伝令は、クリスピヌスの命令を一言一句正確に再現した。

 

 ――いいからとっとと来い。

 

 立場上、無視するわけにはいかなかったので、兵舎を出て、足早に正門に向かう。といっても、大してどうするかという思惑があったわけではない。とりあえず、正門を開けさせないようにするということしか考えていなかったので、最悪、全員を斬り伏せて――などと物騒なことを内心では考えはじめていた。

 

 リキリウスは腰に下げたローマ兵士らしい煌びやかな装飾が施された剣を下げていた。彼が下げるのは、ローマ軍団の象徴である刃渡り50cmほどのグラディウスではなく、スパタと呼ばれる長剣である。

 

 正門へと近づいていくと、なるほど、怒声が至るところから上がっていた。幸いにも、まだ直接の殴りあい斬り合いには発展していないようだった。

 

 リキリウスがそっと剣の柄に手をかけたとき、一人の兵士が駆け込んできて声を張り上げた。それは、再び事態が新たな展開を迎えたことを告げたのである。正門前に集まっていた兵士たちから、ついさっきまでの騒々しさが嘘のように消えていった。波が引くように静けさが戻ってきたのを確かめたリキリウスは、剣の柄にかけた手を離した。 

 

 その兵士が告げたのはラエトゥスの帰還であった。

 

 近衛軍団長官が戻ってきたことで、まとまらない議論を繰り返して頭に血が上っていた兵士たちも表面上は冷静さを取り戻したのだった。

 

*     *     *

 

 ラエトゥスとともに近衛軍団の兵舎へと到着したユリアヌスは、正門の前に市民が大勢集まっていることにまず驚いた。兵舎とはいっても、一種の砦である。ローマ自体強固な城壁に囲まれた要塞であったので、要塞の中の要塞、城の中の城、という言い方が出来た。野次馬たちは遠巻きに、兵舎の正門の前に、馬に乗って立った白髪頭で年齢相応の風貌ながら堂々とした男を眺めていた。

 

 その先客の顔に、ユリアヌスも見覚えがあった。首都長官のスルピシアヌスである。そして、スルピシアヌスが声を張り上げて続ける演説の内容から、思わぬところからライバルが登場していたことを知った。城壁に囲まれた兵舎内の様子は分からないが、スルピシアヌスの演説に対して、具体的な動きはまだないように思える。しかし、ユリアヌスは、すでに自分の頭上にあったかのように思っていた帝冠が、遥か彼方へと飛ばされてしまったように感じはじめていた。

 

「閣下はここでお待ちください」

 

 と言い残して、裏門から中へ入っていくラエトゥスを目で追いかけると、言い知れぬ不安感が胸の中を駆け巡った。さっきまで、ラエトゥスは自分の事を『陛下』と呼称していたのに、『閣下』と呼び直されたことが、異様な不安をかきたてる。

 

 閉ざされた裏門の向こうの側で、一体どのような状況になっているのか知る術はないものの、実はスルピシアヌス支持が大勢を占め、ラエトゥスもそれに乗るのではないか、と悪い予感ばかりが浮かぶ。

 

 そうしている間もスルピシアヌスの演説は続いていた。それは近衛軍団から反応があるまでは果てしなく続くに違いなかった。

 

 不安と苛立ちで気が狂いそうになってくる。

 

 その限界点を超えるまで、さしたる時間はかからなかった。

 

「親愛なる近衛軍団諸君!」

 

 ユリアヌスも声を張り上げた。

 

「スルピシアヌスが信頼に足る男か、よく考えてみよ!」

 

 ユリアヌスが他者を罵ることは滅多にないことだった。数少ない例外が、コンモドゥス帝の時代に政敵に嵌められ、謀反の疑いをかけられた時だった。その時は、我が身の潔白を主張すると同時に、その政敵がどれほど腐敗し、特権的地位を利用して不正に手を染める悪党であるかを証明しなければならなかった。いわば、降りかかる火の粉を振り払ったにすぎない。だが、今回は状況が違う。自分が皇帝という特権的地位を手に入れるために、浅ましく他人を貶め、自分を過剰に尊大に演出しようとする。

 

 

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