皇帝の高い買い物【1章-8】


   

 他人に比べて感情の波が弱いのだと自分では思っていた。それが結果的に、他人に対しては感情の籠らない、何を考えているのか分からない、不気味な声に聞こえるらしいことの自覚はあった。ただ、欠点があれば改めようという感情も希薄なために、自覚はあれども、全く変化は生まれないのだった。

 

 傍から見れば、感情の籠らないリキリウスと激情家のクリスピヌスとのやり取りは、ある意味滑稽であったかもしれない。しかし、この状況で笑えるものは一人もいなかった。状況次第によっては近衛軍団の存亡にすら関わる場面なのだ。

 

 それを理解していてもなお、リキリウスにはこの状況を他人事としか思えずにいた。

 

「……とにかく、ラエトゥスが戻ってくるまでは、お待ちいただくより他あるまい」

 

 リキリウスは正門のほうに視線を向け、軽く顎でしゃくった。耳を澄ますと正門前からは鋭い声が聞こえてくる。門前にいるのは首都長官のスルピシアヌスと首都防衛隊の兵士である。事態の急を知った元老院が、近衛軍団の懐柔の為に寄越したのだが、すでにペルティナクス帝が命を落としたことを知ったスルピシアヌスは、事態が収束した後のことに考えを移したようだった。

 

 曰く、

 

 ……元老院と近衛軍団の仲裁に入ってやるから、自分が皇帝になる手助けをせよ。

 

 ……自分が皇帝になったとしても、近衛軍団による皇帝殺害の件は不問とすることを約束しよう。

 

 そんな趣旨のことを繰り返していた。

 

 近衛軍団長官のラエトゥスが不在ということもあって、近衛軍団が門を開かなかったので、スルピシアヌスは近衛軍団に対する演説を門の外から声を張り上げて行った。スルピシアヌスはペルティィナクス帝の妻の父親である。もちろん、ペルディナクス帝より年上で80にもなるはずだ。しかし、その演説は、城壁に囲まれた堅牢な近衛軍団の兵舎の中にもしっかり響き渡るほどの強い力を持った声で、普段は感情の動かないリキリウスも感心しながらその演説を聞いていた。

 

 そしてその演説は、確かに効果があるようだった。先ほどからのクリスピヌスのうろたえぶりがその証拠である。

 

 リキリウスの考えでは、今後のことを決めるのは長官のラエトゥスである。自分たちが考えるべきではない。確固としていると見るべきか、判断を他人任せにするという極めて他力本願な考え方と見るべきかはさておき、自ら動く気がない以上、その行動はある意味一貫していた。

 

 しかし、近衛軍団の兵士たちはそうはいかない。様々に思惑を巡らせ、中にはスルピシアヌスに同調し、近衛軍団と元老院の関係悪化を防ぐにはスルピシアヌスこそ新皇帝に相応しいのではないか、などと言い出す者も少なからずいた。そのような考えを持つ者は、直接反乱に関わっていたわけではない兵士たちに顕著だった。

 

 だが、皇帝殺しを不問になどできるはずがないと、約束が遂行されるとは全く信じていないものも相当数いて、特に、反乱に関わった兵士たちは戦々恐々としていた。その状況下で、意見がまとまるはずがなかった。

 

 リキリウスはこの事態を収容するために動こうという気は一切なかったので、この2つの異なる考えが衝突しないように奔走していたのはクリスピヌスただ一人だった。リキリウスはといえば、無関心と無行動を貫きながらクリスピヌスの姿を目で追い、バックミュージックのように延々と続くスルピシアヌスの演説に時折耳を傾けているのみだった。

 

 クリスピヌスの頭の中にあったのは、このペルディナクス帝殺害を引き金に、帝国に内戦まがいの状況を生み出してはいけないという一点のみであっただろう。それが、真にローマのことを思っての行動なのか、自己の保身のためなのかはこの際関係ない。

 

 しかし、再び――今度リキリウスのところに駆け寄ってきたのはクリスピヌスの直接の配下だった――か事態の悪化を告げる報告が入ると、さすがに重い腰を上げざるを得なかった。

 

 

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