皇帝の高い買い物【1章-7】


   

 もっともそれでユリアヌスが落胆したわけでも、マルクス・アウレリウス帝への敬意や忠誠が髪の毛ほども失われたわけでもない。最初から手に入らないものが、手に入らないと分かっただけのことだ。ユリアヌスは、マルクス・アウレリウス帝に最後まで忠誠を誓い、信頼に応え続けた。

 

 そして、マルクス・アウレリウス帝も、ユリアヌスの忠誠に対して、考えられるありとあらゆる手段で応え続けた。

 

 ユリアヌスは粉骨砕身し、ローマ帝国の屋台骨を支え続けたし、その結果、ユリアヌスが受け取った栄誉は、誰もが羨むほどの富と名声だったが、それも彼の働きからすれば相応どころか少な過ぎるほどだった。

 

 その忠誠はマルクス・アウレリウス帝が崩御してからもなお、変わることはなかった。いや、ユリアヌスの先輩格のペルティナクスにせよ、さらに先輩格のクラウディウス・ポンペイアヌスにしてもそれは同様だった。彼らがコンモドゥス帝を――いかに愚かな暴君であっても支え続けたのは、コンモドゥス帝本人ではなく、マルクス・アウレリウス帝への忠誠であった。

 

 忠臣は奸臣から見れば危険な存在である。一度などは、密告によってユリアヌスが叛意を抱いているとコンモドゥス帝から疑われたことがあった。それは事実無根の中傷にすぎず、実際、嫌疑は晴れて密告者の方が処刑されることになったのだが、そのようなことがあっても、ユリアヌスは忠誠を貫いた。マルクス・アウレリウス帝への忠誠を――。

 

*     *     *

 

 ラエトゥスに連れられ、近衛軍団の兵舎へと向かう道すがら、ユリアヌスはそんなことを思い出していた。暗いローマの市街地が、赤く染まって見える。

 

 それは、自分の中にある、忘れていたはずの野心が、再び劫火《ごうか》の如く、強く高く狂おしく燃え盛っているからだと思った。

 

 無くしたはずだと思っていた。捨て去ったはずだと思っていた。もはや、胸の中にはささやかな煤《すす》ほどにも残っていないと思っていた帝冠への渇望が、実は消え去ることなく、これほど大きく残っていたことにユリアヌス自身、酷く驚いていた。

 

 そして、おそらく、これが最後のチャンスになるであろうことも、充分に分かっていた。いくら、かつては数々の戦場で戦った身で、頭はまだまだはっきりしているし足腰の強靭さには今なお自信はある、とはいえ60歳である。そろそろローマの中枢からは一歩退き、責任のない名誉職で安寧としながらローマの行く末を見守ることを求められるような年齢である。

 

 目の前を行くラエトゥスを足早に追っていると、自然に息が切れ、動悸がしてきた。

 

 そう。これが最後の機会なのだ。これを逃せば、二度と帝冠が自分の所に回ってくることはあり得ない。そう思えば思うほど、鼓動は速くなり、しかしそれに比例してユリアヌスの足は速くなっていった。

 

*     *     *

 

「ラエトゥスは何をしているのだ」

 

 欠伸をかみ殺したリキリウスに、イラついた様子で声をかけてきたのはクリスピヌスだった。40代後半の近衛軍団の副官である。

 

「焦っても仕方ない」

 

 リキリウスは、クリスピヌスを一瞥して、静かに答えた。

 

「焦ると軍団内に動揺が拡がる」

 

「動揺ならとっくに拡がっている!」

 

 クリスピヌスの怒声をさらりとした表情で受け流すリキリウスだったが、別に務めて冷静に振る舞おうとしているわけではなかった。今がローマにとって重大な危機であることは認識していた。事態の速やかな収拾が図られなければ、ローマには災厄が降りかかる。政治の混乱の末路は流血の災禍。何度も繰り返されてきた歴史である。

 

 それは十分理解しているのだが、不思議と現実感が沸いてこなかった。ローマの人々の多くが今ここで起こっている事実を知る由もない。全てを覆い尽くす夜の闇に抱かれ、街は静かな眠りについている。ローマの行く末だの何だのという騒ぎは、あるいはこの場だけでの戯言《たわごと》のように思えてくるのだった。

 

 

1章-6】へ  【目次】  【1章-8

 

▼あなたのクリックが創作の励みになります。▼



▼感想をいただけると更なる励みになります▼
 
『皇帝の高い買い物』の感想