皇帝の高い買い物【1章-5】


   

 その間も最前線の地方軍団の兵士たちはその平和がいつまでも続くなどとは思っていなかったし、明日蛮族が国境線を越えてきたとしてもおかしくないと、常に緊張状態にあることを強いられていた。そこは気の緩みが死に繋がる世界なのだ。だが、そんな前線の空気が、遠く離れたローマに伝わる筈がない。

 

 逆にコンモドゥス帝の下で、一切戦争を経験しなかった近衛軍団の堕落ぶりはローマはおろか地方の属州にも知れ渡っており、今は訓練よりも金勘定や政治活動に費やす時間の方が多く、「あれがローマの最精鋭部隊と称された近衛軍団のなれの果てか。今となっては張り子の虎よ。実戦では地方軍団にもは到底及ぶまい」とローマ市民にも地方軍団の兵士たちにも陰口を叩かれている始末だった。

 

 とはいえ、今のローマにおいて近衛軍団が最大の権力集団となっているのは事実だった。皇帝の権力は絶大だが、その基盤となっているのが何かといえば、近衛軍団の戦力とローマ市民の支持に他ならない。元老院はローマの貴族・民衆の代表からなる議会だが、今の元老院は、皇帝権力の追認機関でしかないところまで骨抜きにされてしまっていた。

 

 そして、ローマ市民は気まぐれだが、近衛軍団は十分な報酬を支払っている限りは、皇帝の味方であり続けた。無論、十分な報酬を支払えなければ、奴らは簡単に刃を向けてくる。今宵、ペルティナクス帝が命を落としたように。

 

 今はそれでいい……とユリアヌスは考えた。

 

 今は、お互い持ちつ持たれつ、利用しあえばいいのだ。思えば、ペルティナクス帝は性急に過ぎたのだ。焦り過ぎたのだ。改革とは、常に時間をかけて足場をならし、基盤を整えてから行うべきことなのだ。急激な変化は民衆に不安をもたらす。不安は不満へと変わる。支持を失えば、改革など夢幻もよいところではないか。

 

 自分は同じ過ちは繰り返さない。いや、繰り返してはならない。政局をこれ以上混乱させることは、ローマにとって得策ではない。混迷が続きローマが弱体化すれば、蛮族たちも再び動き出し、戦争になる。戦費が嵩めば税を上げねばならぬ。その結果苦しむのは民衆なのだ。

 

 だから、皇帝の権力は盤石であり続けなければならぬ。それは、すなわち強い帝国へと直結していくのだから。強い帝国には、何者も侵攻しようなどとは考えない。何者をもひれ伏させる強い国家であり続けることが、平和と安定のための唯一の道なのだ。

 

 自分には、それができる。ユリアヌスには自信があった。ローマの混迷を立て直す自信が。しかし、そのためには、目の前にいる狡猾な狼――いや、狐の助けは絶対に必要なのだ。

 

 ユリアヌスはラエトゥスに鋭い視線を向けると、「しばし待て」と言って、部屋を出た。

 

 ローマの邸宅では日本と同じように外靴と中靴を履き替える習慣があった。ユリアヌスはコルク底のサンダルのつま先で床をコツコツと軽く蹴った。

 

 このサンダルを、外靴に履き替えることなく向かった方が、「いかに自分があらゆる事柄を優先し事態の収拾に努めたか」を示す演出になるやもしれぬ、などと思って、普段なら考えることもない下らないことに考えを巡らせていることに苦笑した。

 

 ローマの貴族は外見をとにかく気にするものだ。髪の毛を整え、無駄毛の処理をするのはローマ貴族の当然のたしなみであり、末端の兵士でさえも気を使う。

 

 非常事態だからといって、身なりを整えることを失念するような愚か者はローマ市民から皇帝として認めて貰えまい。

 

 ユリアヌスは必要最小限の準備を整えると、ラエトゥスの先導の下、秘書を連れて私邸を後にした。

 

 次に戻ってくるのは皇帝となった後になる。この時は、自分が何の障害もなく“皇帝”になれると思っていた。

 

*   *   *

 

 ユリアヌスが生まれたのは133年の事。父はメディオラヌム(ミラノ)随一の名門の生まれで、母もアフリカに植民した上流階級の生まれだった。母方の親戚筋には7代皇帝オトーもいる。

 

 

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