皇帝の高い買い物【1章-4】


   

 目の前で座って待っていたラエトゥスは、ユリアヌスが入るなり立ち上がり一礼した。視線を落としたラエトゥスの表情には、いつもの軍人らしい精悍で、ギラギラした目つきはどこにも見当たらなかった。

 

 相当のことがあった……と直感した。

 

 ユリアヌスが口を開くよりも早く、ラエトゥスが言った。

 

「閣下……ペルティナクス帝が、先ほど崩御なされました」

 

 簡潔で無駄を省いた一言に、ユリアヌスの思考は一瞬混乱した。

 

「一体、何があった?」

 

「反乱です。皇帝陛下に不満を持つ一部不穏分子が、皇帝陛下を殺害したのです」

 

 さすがに、帝国内の中央行政、軍事、地方行政とあらゆる要職を歴任してきた男である。その言葉が終わる前に、ユリアヌスは呼吸を整えて平静を取り戻していた。

 

 そして、ラエトゥスの言葉の裏側もすぐに見抜いた。目の前にいる男も、皇帝殺害に加担した不満分子の一人だと。確かに、微かにうつむき視線を彷徨わせているが、顔色は至って平常で、皇帝殺害という事態にさして動揺しているように見えない。それでいて、表面上ではうろたえているように見せかけようとしているのはいかにも不自然だった。

 

 なにより、この男には、前科がある。かつてコンモドゥス帝が暗殺された際にも加担した事実があることは、ユリアヌスならずとも周知の事実だった。

 

 とはいえ、この場でラエトゥスを糾弾したり問い質して真実を明らかにしようなどという気は起きなかった。

 

 相手は一人である。配下の者たちを使えば、いくらラエトゥスが軍隊経験豊かでユリアヌスより若くて、胆力もある勇猛な男だとしても、捕えて首都長官スルピシアヌスに引き渡し、同時にスルピシアヌス配下の首都防衛隊――近衛軍団が首都防衛の軍であれば、首都防衛隊は首都治安維持のための警察であった――と共に反乱を鎮める……ということも難しくはないように思われた。その後のことは元老院に任せるのが筋というものだろう。

 

 だが、ユリアヌスの齢60とはいえまだまだ曇りの見えない頭脳は、ラエトゥスがここに来た理由にも思い至っていた。

 

 ユリアヌスは、自らが既に誤った考えに踏み込み始めたことに、気付いていなかった。

 

「私は……どうすればいい?」

 

 落ち着き払った声でそう問うたユリアヌスに、ラエトゥスは慇懃《いんぎん》に頭を下げると、

 

「閣下には、是非、次期皇帝陛下となっていただきたいのです」

 

 と言った。

 

 ラエトゥスの口からこぼれ出てきた『次期皇帝』の言葉。予想していた言葉ではあったが、実際に聞くと背筋をぞくぞくっと震えが駆け上がっていった。

 

 だが、不思議と迷いはなかった。

 

「……よかろう。だが、この様な形で皇帝となれば元老院との対立することになろう。近衛軍団が、私を全力で支えることが条件だ」

 

「もちろんですとも」

 

 敬礼したラエトゥスは、さらに続けた。

 

「近衛軍団は、陛下に忠誠を誓いましょう。近衛軍団は、いついかなる時も、ローマ帝国のために身命を捧げる覚悟です」

 

「……」

 

 それを聞きながら、かつての、近衛軍団はそうであっただろう、と思った。皇帝の戦場には近衛軍団の赤い兵装があり、その獅子奮迅の働きぶりは、地方軍団の最前線で命をかける兵士たちからも一目も二目も置かれていたものだ。

 

 しかし、今はどうであろうか? 先々帝のマルクス・アウレリウス帝も最前線に赴いている最中に病気で死んだ。59歳だった。ユリアヌスは12歳年下だったが、今は、マルクス・アウレリウス帝の年齢を一つ追い越してしまった。

 

 その間――つまり、コンモドゥス帝が統治している間、ローマ帝国は周辺の蛮族との戦争を一切しなかった。ローマ帝国史上に残る暴君の一人に数えられるコンモドゥス帝が平和主義者であったというよりも、単に戦争に関心を示さなかっただけだろう。

 

 

1章-3】へ  【目次】  【1章-5

 

▼あなたのクリックが創作の励みになります。▼



▼感想をいただけると更なる励みになります▼
 
『皇帝の高い買い物』の感想