皇帝の高い買い物【1章-21】


   

 その顔は、先ほどまでのユリアヌスとは別人ではないかと思わせるものだった。60歳という年齢を全く感じさせない――否、20歳は若返ったかと思わせる顔つきに、リキリウスは自然と膝が震えるのを感じた。

 

 それは接する者を圧倒する威厳。暗殺者リキリウスでさえ、滅多にお目にかかれる種類の圧力ではなかった。

 

 そう……これこそがまさしく……。

 

「……これが、皇帝の威厳か」

 

 リキリウスは思わず呟き、自然と片膝をついた。

 

 リキリウスは命の価値など考えたこともなかった。自分の命も他人の命も、全て等しく塵や芥と同じ価値しか見出せなかった。しかし、もしも生まれてきたことや生きることに何らかの価値があるというのならば、この男を守るために、この男がローマを救うのを見届けるために、あったのだと思えてきた。ならば、この命は、この男の為に捨てよう。

 

 リキリウスが胸の中で認(したた)めた誓い。それは奇しくも、ユリアヌスやペルディナクスがマルクス・アウレリウス帝と交した誓いに酷似していた。

 

 その時、ラエトゥスが広間の中に戻って来て、「陛下」と、声をかけたので、リキリウスは立ち上がった。リキリウスとラエトゥスに対してユリアヌスが向けた視線は、“射るような”という表現がまさしく的確だった。 

 

「先ほど、陛下の護衛団を編成いたしました。ここにおりますリキリウスを隊長の任に就ける予定です」

 

「左様か」

 

 リキリウスに向けられた視線が幾分か緩んだように思えた。

 

「ならば、ついてまいれ。元老院に向かい、皇帝戴冠の承認を受けに行く」

 

 リキリウスは無言のままで頷くと、トーガを直しながら広間を出て行くユリアヌスの後を追った。

 

 だが部屋を出る前にラエトゥスに呼び止められ、足を止める。

 

「一体、何があった? 別人かと思ったぞ」

 

「……人間が化けるのは一瞬だということだ」

 

 リキリウスは静かに答えた。ユリアヌスの内心の葛藤を知る由もないリキリウスには“何が”あったか、と問われても答えに窮する。

 

 だから問いそのものは無視して、ラエトゥスに返したのは掛け値なしの本音だった。男子三日会わざれば括目してみよ、という言葉をリアルに見たのは初めての経験だった。

 

 いや、それは“体験”に等しい。

 

 価値観を180度ひっくり返されたようなように、リキリウスには思えた。

 

 リキリウスの言葉の意味を図りかねたのか、興味がなかったのか、ラエトゥスは小さく肩をすくめると、

 

「せっかく、ユリアヌスを皇帝にするのにこれだけ骨を折ったというのに、大人しく傀儡皇帝になってくれないようでは、骨折り損というものだ」

 

 と憮然としたように呟く。

 

 リキリウスはラエトゥスの言葉に同意を返すことなく、ユリアヌスの後を追った。

 

*     *     *

 

 急遽招集された元老院はユリアヌスの皇帝就任を満場一致で承認した。第19代ローマ帝国皇帝ディディウス・ユリアヌスの誕生である。

 

 しかし、元老院の意向を無視して近衛軍団が独断で決めた皇帝選出に不満を抱く者がいなかったはずがない。近衛軍団の武力の前に、不満を持つ元老院議員も沈黙するよりなかっただけのことである。

 

 多くの元老院議員は日和見することを決め込み、自分に有利になるように動こうと決めていたが、一部の者たちは、すでに反ユリアヌスに向けて動くことを決意していた。そのためには、近衛軍団より――もっと言えば、その長官のラエトゥスよりも巨大な権力と軍事力をもつ存在が必要になる。

 

 その日の夜のうちに、ユリアヌス排斥に向けて、水面下での策動を始めた者もいた。

 三者とも漠然とそういう動きが起こるであろうことは予測していたが、当然まで彼らがそのことを知ることのできる状況ではない。

 

 それに何より、この夜はまだ、ユリアヌスにはやらなければならないことがあったのである。

 

 ついに、”皇帝”として、パラティーノの丘の宮殿に入ったユリアヌスは、一室のベッドの上に安置されていた先帝となったペルディナクスの、首から上のない遺体に自らの手で頭を合わせた。

 

 その後はリキリウスさえ部屋から出るように命じられてしまったので、何があったのかは本人以外に知る者はいない。分かるのはかなり長い時間ペルディナクス帝と同じ部屋にいたこと。そして、今は亡き前任者に、新たな誓いを立てていたであろうということだけだった。

 

 そして、朝が来た。

 

 もはや後戻りのできない朝が……。

 

 

1章-20】へ  【目次】  【2章-1】へ

 

▼あなたのクリックが創作の励みになります。▼



▼感想をいただけると更なる励みになります▼
 
『皇帝の高い買い物』の感想