皇帝の高い買い物【1章-20】


   

 この事態に震えあがったコンモドゥス帝は市民の怒りを鎮めるためにクレアンデルを生贄として差し出すことを決断する。奸臣クレアンデルの命運はここに尽きた。哀れにもクレアンデルは丸腰で怒りに震える市民の前にただ一人突き出されたのである。

 

 恐怖と絶望に顔を歪ませるクレアンデルの慈悲と救いを求める声の背後で、無情にも宮殿の門は閉ざされた。そして、クレアンデルは市民の凄絶なリンチの末に命を落としたのだった。ローマに腐敗を蔓延させた張本人とはいえ、それはあまりにも惨めな末路であった……ユリアヌスにそう語ったのはローマから訪れた商人であった。

 

 ローマの情報をわずかでも取りこぼさないように、様々なルートを通じて情報収集に勤しんでいたユリアヌスに、商人は身振り手振りを交えながら、怒りを爆発させた市民の恐ろしさを雄弁に語って聞かせた。

 

 市民の怒りは、時として他国の大軍や残酷な蛮族たち以上に国家にとって恐るべき脅威となる。

 

 しかし、それ以上にユリアヌスが恐れたのは、コンモドゥス帝その人だった。コンモドゥス帝はクレアンデルが汚職で得た莫大な財産を、何食わぬ顔で丸々懐に入れたのである。

 

 それが、最初からのシナリオだったのかは分からない。しかし、コンモドゥス帝はクレアンデルがしていたことの全てを最初から知っていたのではないか、と思えてならなかった。実際には知りながら放置し続けたのではないか? 結果だけを見れば、暴動は丸く収まった。クレアンデルの命一つを犠牲にして。そして、この件で得をしたのはクレアンデルの不正蓄財を全て手に入れたコンモドゥス帝のみである。

 

 ユリアヌスは、自分の考えにぶるりと身震いした。真に畏れるべきはコンモドゥス帝に他ならないのではないのか。享楽主義者の顔の裏側で、その実、残酷な策謀を巡らせていたのは皇帝本人に他ならなかったのではないのか。

 

 クレアンデルが消えた今、コンモドゥス帝が親政を始めるだろう。その時には、さらに凄惨な未来が待っているのではないか。今回のクレアンデルの一件で、コンモドゥスの素顔が垣間見えたような気がした。

 

 もしも、ペルディナクスがコンモドゥス帝の本性をすでに見抜いていたとしたら……?

 

 コンモドゥス帝が暴君と化すことを予測した上で、最悪の場合、コンモドゥス帝の排除すら視野に入れての言葉だったのではないか?

 

 口でこそ、コンモドゥス帝に弓を引くつもりはない、などと言ってはいても、いざとなれば自分が汚れ役を引き受ける腹積もりだったのではあるまいか。

 

 あの、後継者という言葉は――。

 

*     *     *

 

 どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 

 薄暗い部屋の淀んだ空気の中で、リキリウスはふと考えた。まるで時が止まったようにさえ感じる。その間リキリウスは、ユリアヌスがペルディナクスの首の前で、泣きじゃくるのを、息を殺し、気配を殺し、じっと見つめていた。

 

 部屋の中にいるのは2人だけである。本来は真っ先に退席したかったリキリウスだったが、万が一のことがあってはならないとラエトゥスに命じられその場に残っていたのだった。

 

 リキリウスにはユリアヌスの涙の意味が分からなかった。人はいずれ死ぬ。それは、人の世の摂理だ。誰にも帰ることなどできはしない。たとえ世界一の権力者であっても。そんなふうにしか考えられないリキリウスにとって、他人の死に涙する感情は理解の範疇の外側にあった。

 

 しかし、ユリアヌスの嗚咽が止まり、静かに顔を上げた瞬間、リキリウスは全身が総毛立つのを感じた。目があった瞬間、心臓をわしづかみにされたような息苦しさを感じた。猛獣と同じ檻に丸腰で放り込まれたような感覚。

 

 

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