皇帝の高い買い物【1章-2】


   

 しかし、ユリアヌスに全く野心が無い人間であったかといえばそのようなことはない。いくら家柄がよくとも、出世しようと思えばそれなりに清濁併せ飲む度量が必要になってくる。あるいは、下層民に対する思いやり溢れる顔も、人気とりのための仮面にすぎないのかもしれない。

 

 そもそも、その行動の全てが善意や裏表のない好意だけで成り立っている人間などいるのだろうか?

 

 奴隷は、唾を飲み込んだ。

 

 悪事千里を走るとはよく言ったものだ。この奴隷の耳にさえ、昨夜の出来事はすでに耳に入っていた。それは、ユリアヌスがこれまで築き上げてきた信頼や尊敬といったすべてを無にしてしまうほどの行動であった。

 

 ユリアヌスはそのことに気付いている。それが、目の下のクマになって表れているように思えた。

 

 お気の毒に……昨夜は眠れなかったのでしょう……。

 

 奴隷は、今年60歳になる主人の後ろ姿に心底同情する。

 

 その背中からは、様々な感情が見え隠れする。不安もあろう。恐怖もあろう。しかし、その背中から見えるのは、いつもの堂々とした後ろ姿だ。それなのに、異様な不安が湧きあがってくる後ろ姿だった。あまりにも重すぎる荷物を背負ってしまった男の背中に思えた。

 

 目の下のクマとは対照的に、その顔つきは年齢よりずっと若く見えた。その顔からはユリアヌスの皇帝としての職責を全力で果たそうという意思を感じ取ることができた。それなのに、異様な不安が湧き上がってくる顔だった。あまりにもその職責の大きさと正面から向き合いすぎて、吹き飛んでしまいそうに思えた。

 

 前を行くユリアヌスの頭にこれから乗る月桂樹の冠は、まさしくローマそのもの。あまりにも大きすぎて重すぎて、その決して細くはない首がぽきりと折れてしまいそうだった。

 

 皇帝になるというのはつまりはこういうことなのだろうか。

 

 ローマを背負うというのは、何という・・・・・・。

 

 こんなことを考えていてはいけない……。

 

 奴隷は慌てて何度も頭を振った。主従の立場もわきまえず、主人の境遇に同情しようなど、僭越もいいこところだ。主人の思考を推し量ろうなど、奴隷の立場を超えてしまっている。それでも、主人の後ろ姿に、腹の底から湧きあがってくる不安を押しとどめることはできなかった。

 

*     *     *

 

 話は、少しさかのぼる。ディデイウス・ユリアヌスが皇帝で無かった最後の日。3月28日夜のことである。昨日までの饗宴《きょうえん》が嘘のようだと思いながら、久方ぶりに身内だけの食卓を囲んでいた。

 

 ユリアヌスが北アフリカ――後世で言うところのチュニジア、リビア辺り――の属州総督の任が満期で終わり、ローマに戻ってきたのはほんの数日前のことだった。ローマに帰任してしばらくの間は、自宅には大勢の友人知人、ローマの政治経済を動かす、政治家や官僚たち経済界などの関係者らが押し掛け、宴会が繰り広げられた。

 

 ユリアヌス自身は、内心では騒々しい事を好めない性格だったが、これはただの宴ではなく、義務にも似た重要な政治活動だと考えて、割り切りながら付き合いを続けていた。そうやって個人的な関係者のみならず、ローマを動かしている様々な人たちを自宅に招いて文化交流や情報交換をするのは、決して無意味なことではなかった。特に、長い間ローマから離れていた身としては、その間のわずかな変化もしっかりと耳に入れておかなければ、命取りにならないとも限らないからだ。

 

 とはいえ、好めないものは好めないし、馴染めないものは馴染めないのも確かだった。

 

 ユリアヌスは非常に高貴な出自だったが、ローマの平穏な生活しか知らず、コンモドゥス帝にさえ脅威とは思われなかった凡庸――いや、無能な元老院議員とは異なり、執政官や各地の属州の総督といった様々な要職を歴任してきた。同時に、下層民たちの貧困に胸を痛め、多額の寄付をしたことなどもあったが、それが焼け石に水にすぎないことも重々理解し、常々よきアイディアはないものかと一人思案していた。

 

 

 

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