皇帝の高い買い物【1章-10】


   

 もしも、ユリアヌスが何らかの方法で自分の体を抜けだして、今の自分を見ることができたならば、あまりのおぞましさに目を背け、とても正気ではいられなかっただろう。

 

 その姿はあの時の政敵の姿に酷似していたに違いない。全てが覆され、最後はコンモドゥス帝に涙ながらに慈悲を乞い、「死ぬのは嫌だ」と絶叫しながら刑場へと引きずり出されたあの男の姿と。あの男の名は何といっただろう。よく思い出せない。

 

 ――そんなことを思うのは、全てが終わった後だった。少なくともこの時点では、自分が帝位に就くという以外には何も考えることができなくなっていた。

 

 ユリアヌスは、さらに口撃を続けた。

 

「スルピシアヌスは義理の息子ペルディナクス帝を助けようとしなかった。皇帝陛下が諸兄らに支払うドナティブムを用意するのに奔走していた時、その男は自分の懐を痛めるでもなく、皇帝陛下が心身を酷使して尽力していたまさにその時、自らは饗宴に耽っていたのだ!」

 

 ユリアヌスは一旦言葉を溜め、そして、最初の言葉をもう一度繰り返した。

 

「本当にスルピシアヌスが信頼に足る男かよく考えてみよ」

 

 さらに、「私は――」と続けようとしたユリアヌスの言葉に重なり、スルピシアヌスが反撃の言葉を口にした。

 

「ユリアヌスこそ、信用ならない男だ! この男は属州総督の地位を利用して不正な蓄財をしているのは周知の事実。皇帝の地位に就けたら、帝国は私物化されるだけだぞ」

 

「言葉を慎め! 不正な蓄財など事実無根だ! 私の資産は正当な報酬により皇帝陛下より賜ったもの! 不正蓄財を言うのなら――」

 

 それからしばらく、中傷合戦が続いた。それは、どのくらいの間続いただろう。互いに罵りあったり、自らの政策を主張しあったり、お互いの出生から皇帝位を授かることへの正当性を訴えたり。

 

「私はペルディナクス帝の義父である。最も血筋の近い者が帝位を継承するのは当然ではないか!」

 

 とスルピシアヌスが訴えれば、

 

「ペルディナクス帝が奥方様に皇后の称号を与えなかったのは周知の事実である。それに、私は血筋をたどれば、7代皇帝マルクス・サルウィウス・オトーの親戚筋にあたる」

 

 とユリアヌスも返す。

 

 そんなやり取りを聞いていた野次馬からも失笑が漏れたのがユリアヌスの耳にも届いた。

 

 ペルディナクス帝が妻には皇后の称号を与えなかったのは、自分の身にもしものことがあったとしても、妻の身を守るためだった。ペルディナクス帝は、自分の帝位がそれほど危ういものだと十分に理解していたのだ。ペルディナクス帝のそんな思慮深さに対して、今の義父は軽率に見られたにしても仕方ない。

 

 ユリアヌスの7代皇帝云々に至っては何をか言わんや、である。オトーが帝位にあったのは100年も昔のこと。ローマ内戦期の四皇帝の年(68年~70年)の2番目の皇帝である。そんな混乱期の皇帝であるから、オトー本人に皇帝就任の正当性があったか疑わしい。就任してわずか3ヶ月で暗殺の憂き目を見たのがいい証拠である。

 

 ユリアヌスだって、そんなことは分かっている。おそらくはスルピシアヌスにしても。しかし、この場においては、あらゆることが頭の中から飛び去っていた。帝位への渇望が、全ての思考を塗りつぶしていた。

 

 だからこそ、ユリアヌスの口からは、こんな言葉も出てきた。

 

「私を皇帝にするのに協力すれば、近衛軍団全員に3,000セルティウスを支払おう!」

 

 スルピシアヌスも続いて叫んだ。

 

「私は5,000だ!」

 

*     *     *

 

 紀元前27年に、ユリウス・カエサル亡きあとの混乱の極致にあったローマに安定をもたらしたオクタヴィアヌスに尊厳者を意味するアウグストゥスの称号が与えられ、それが事実上の皇帝を意味する言葉となってから200余年。

 

 ローマ帝国皇帝の地位は、決して安定的ではなかった。度々引き起こされた流血の惨事。皇帝本人や権力者を対象にした暗殺事件。そのためローマ帝国の皇帝が、決して独裁的な専制君主たりえなかったことは、以前にも話題に上げたように思う。

 

 

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