皇帝の高い買い物【プロローグ-4】


   

 だから、彼に対しては虚勢を張ったり、意味のない嘘をつかず、今、自身が考えていることを素直に口にした。

 

「……今考えている」

 

 その時、ラエトゥスの脳裏に、唐突に一人の男の顔が浮かんだ。つい先日、北アフリカの属州から戻ったばかりの男である。帰任の挨拶のために宮殿に寄った際に、ラエトゥスも顔を合わせており、一言二言、言葉を交わしたのである。

 

 60歳になったばかりで、名門の出自であり、軍歴も政治家としての経歴も申し分なし。性格は温厚で質素を好む人間ながら、コンモドゥス帝の時代を無難に乗り切った世渡りの上手さもあった。

 

 社交辞令的に、「機会があったら、私のドムス《邸宅》にまいられよ」とにこやかに言った好々爺の顔を思い出し、あの男なら元老院もローマ市民も納得するだろうと考えた。

 

「……次の皇帝陛下のところに行ってくる。お前は、兵たちを兵舎に移動させろ」

 

 ラエトゥスはリキリウスに命じた。

 

「俺が戻るまでは、兵を外に出すな。誰が来ても、だ」

 

「何を考えている? 本当に反乱をおこすつもりか? それともお前が皇帝になるつもりか?」

 

「まさか!」

 

 ラエトゥスは苦笑する。反乱だの自分自身が皇帝になるだのとは考えたこともない。ラエトゥスの頭の中にあるのは常に自分の利益のみである。しかし、矛盾するかもしれないが、自らを愛国者であるとも自認していた。

 

 速やかなる事態の収束。自身とローマにとって、それが最善であるのは言うまでもないことだ。全てはローマのために。自身の保身や利益とローマとを天秤にかけるつもりはさらさらない。それらは、ローマが健在であってこそ手に入るのだから。

 

「反乱まがいのこの事態を、これから連れてくる人物に速やかに収束させる。そうすれば、元老院もローマ市民も、次期皇帝陛下と認めざるを得ないだろう」

 

 ラエトゥスが淡々と説明する。リキリウスがどのような感想を抱いたのかは不明だった。表情には一切の変化もなかったからだ。ただ、「了解した。速やかに、兵を移動させる」と感情の籠らない声で答えたのみだった。

 

「うむ」

 

 と答えたラエトゥスは、未だに放置されたままのペルティナクス帝の遺体に目を落とした。名君ではなかったかもしれないが、帝国のために一身をなげうつ覚悟で職務を遂行した今は亡き皇帝を、冷たい石の床にいつまでも放置しておくのは忍びなく思った。胸から流れた血は、トーガという高位の貴族の象徴である体に巻きつけた大判の布に全て染み込み、すでに凝固してどす黒く変色していた。心臓が止まってから相当の時間が過ぎたことの証明だった。

 

「それから、遺体をシーツにくるんで寝室に運ばせておけ。先帝陛下のご遺体だ。くれぐれも丁重に、敬意を忘れるなよ」

 

 ラエトゥスの指示を受けたリキリウスは、今度は何も問い返さずに、一つ頷いて承認の意を示した。それを確認したラエトゥスは、広間を出て宮殿を後にする。

 

 それは193328日の夕刻の出来事であった。

 

 ラエトゥスが2人の供を連れて、外へ出て空を見上げると、つい先程までいたパラティーノの丘の宮殿の喧騒が嘘のようにひっそりと静まり返り、暗くなり始めた空には星の瞬きが見え始めていた。

 

 皇帝候補者を連れて来て、近衛軍団の支持を取り付けたら元老院を召集し、皇帝認可の採決を得なければ。

 

 やることはたくさんある。今日は長い夜になるな……。

 

 かつんと一つ、ラエトゥスの堅い軍靴が音を鳴らした。それは、ラエトゥスが思う以上に長い夜の始まりを告げる音であった。

 

 

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