皇帝の高い買い物【プロローグ-3】


   

 ペルティナクスが皇帝となった時のように、側近の首都長官をと考えてはみたものの、首都長官スルピシアヌスは、ペルティナクス帝の妻の父親である。そんな男がローマ皇帝となれば、近衛軍団にはどのような報復が待っているか分からなかった。

  

「どうするつもりだ」

 

 考えがまとまらないラエトゥスの後ろから一人の男――リキリウスが声をかけてきた。30歳のローマ人とは思えない端正な顔立ちの男だ。ラエトゥスの秘書官として、宮殿に詰めていた近衛軍団の官僚の一人である。出自はイタリア半島の南で栄える港町の騎士階級である。

 

 ローマ帝国というのは、厳しい身分制が存在した封建的な社会であり、騎士階級は元老院議員という超特権階級の次の身分に当たる。しかし同時に、奴隷であっても実直に働き続ければ解放奴隷という形でローマの市民権を得ることもできたし、平民階級のような人間でも能力さえあれば上に上がっていける時代でもあった。

 

 下層の人間が這い上がろうと思えば軍に入り実力を示すのが最も手っ取り早く確実な方法であった。その最たる例が解放奴隷を父に持ち、軍で実力を認められて出世の糸口をつかみ、ついには皇帝にまで昇り詰めた、たった今死んだばかりのペルティナクス帝である。

 

 そんな中で、騎士階級出身で高い能力を持っていたリキリウスは若くして頭角を現し、将来の近衛軍団長官候補とさえ目されていたのであった。とはいえ、リキリウスの場合は、よくある実力主義の出世物語とはやや趣が異なっていた。彼が軍内で出世できたのはラエトゥスの意に従い、様々な暗殺をはじめとする特殊な任務をこなしてきた男だからこそ、だった。

 

 ラエトゥスはリキリウスとは10年以上の付き合いがあったが、初めて出会った頃から彼の手は血に染まっていた。表情一つ変えずにあっさりと、どんな人間であっても殺してみせた。残酷にでも、事故のように見せかけてでも、自殺のようにと、自由自在にリクエストに沿った殺害方法で演出してみせる技量は、職人の域である。

 

 その反面、社会的な価値観を全く意に介していない側面もあった。身分、宗教、富、権力、上下関係といったあらゆる価値基準を、彼は無意識になのか意識的になのかはとにかく、無視して行動していた。

 

 その態度は、ふとした拍子にラエトゥスとの関係の中に出てくることもあったが、両者の利害関係が一致――それは大抵の場合、ラエトゥスが一方的な受益者であった――している中においては、大した問題にはならなかった。

 

 ラエトゥスは、リキリウスの口のきき方が横柄なのは、単に社会的な身分の上下を意に介していないだけのことであると解釈しており、ラエトゥスの命令に唯々諾々と従うリキリウスのことを、人間的な感情が無いものと信じ込んでいた。

 

 その解釈が正しいか否かはとにかく、その解釈の下で両者の関係が保たれている限りにおいて、その関係は極めて良好であった。

 

 同時に、ラエトゥスは自分がここまでの出世が出来たのはリキリウスの貢献があったからこそという事実を忘れることも、その貢献に対する相応の報酬や見返りを与えることを忘れることもなかった。

 

 

 ラエトゥスにとって、リキリウスとの関係は上司と部下とも、友人同士とも違う奇妙な関係であった。奇妙な価値観で繋がれた奇妙な人間観会という言い方をするのが適当かもしれない。しかし、その根底において、ラエトゥスはリキリウスを信頼していた。他者――皇帝でさえ――を自分の出世や欲望を満たすための道具としか考えていないラエトゥスにとって、それは絶対的なものではなかったにしても、事実だった。

 

 

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