「名城君……いつから、そこにいたの?」
「さっきからだよ」
愛莉さんの問いに孝樹君が答えるが、その返答にはちょっとムッとしたような含みがあった。私は、孝樹君が何に対してつむじを曲げたのか分からなかったけれど、愛莉さんはすぐに察したようだった。
「ごめん。……そういう意味じゃない」
……愛莉さんがしゅんとしおらしくしていると、却って不気味に見えるのはなぜだろう?
「とりあえず……立つかスカートの裾を直せ。目のやり場に困る」
「へ?」
確かに、尻もちをついたときに、愛莉さんのスカートの裾がめくれてすらっとした太腿が露わになって、中が見えかかっていた。愛莉さんは小さく可愛らしい悲鳴を上げて、スカートを抑える。
「……まぁ、下手に敵を増やすとどうなるか、いい勉強になっただろう?」
孝樹君はトレーナーの襟を握り、
「校内ランニング中なんでな。行かせてもらうぞ」
軽く地面を蹴った孝樹君の背中に、
「待って! 孝樹君」
と、愛莉さんが声をかけた。私の聞き違いではない。愛莉さんが初めて“名城君”ではなく“孝樹君”と呼んだ。人間にとって、名字で呼ぶのと名前で呼ぶのとでは、そこに込められる感情は全く異なるものらしい。私は、ほとんど意識せずに使っているけれど。
呼び方が変わったのは、愛莉さんの中で何かしらの感情の変化があったということなのだろうか。
「助けてくれて、ありがとう。でも、何で助けてくれたの? 私はあんな酷いことをしたのに」
「……放っとくわけにもいかなかっただろ?」
孝樹君がぽつりと言った。
「それに、お前は俺の……」
と一瞬何か言葉を続けかけたけれど、その言葉の最後までは出てこなかった。続けて出てきた内容は、さっきの言葉の続きではなさそうだった。
「俺は……昔、人を見捨てたことがあるからな」
孝樹君がふっと遠くを見るような眼をした。
「人を助けない……いや、行動を起こさない理由を探すのは簡単だ。あれが悪い、これが嫌いだと言えば、大抵のことは正当化できる。でも、どんなに素晴らしい大義を掲げても、行動を起こさなかったらずっと後悔する」
私は急に居心地の悪さを覚えていた。実のところを言えば、私は愛莉さんを助けなくてもいいと思っていたのだ。愛莉さんは孝樹君にしたことを考えれば、そのために若葉さんや純一君が奔走したことを考えれば、充分な罰ではないか。
そう考えてから、最近自分が神様とか罰とかという単語を頻繁に使うようになったと思った。人間の価値観や倫理観、宗教観に少々毒されているようだ。
「格好いいね。君は」
愛莉さんが言うのを聞きながら、同じ台詞をどこかで聞いたような気がしていた。人間の言う既視感≪デジャヴ≫というやつだろうか。
「誰よりも努力を惜しまないくせにそれを人に見せるのを嫌って。一匹狼を気取っているくせに、その実誰よりも人情に厚くて。本当は誰よりも弱いくせに強がって。本当は誰よりも優しいくせに誰に対しても無関心を装って……」
褒められているのか貶≪けな≫されているのか分からない物言いに、孝樹君も少々面食らっているようだった。
「私は、君のこと格好いいと思う。……私は、君のそんな格好いいところが、ずっと前から、大嫌いだった」
私には愛莉さんの言っていることは矛盾だらけで意味不明だと思った。しかし、孝樹君の顔を見ると、微かな笑みを浮かべているのが分かった。嫌いと言われて笑う感覚もよくわからない。
……などと考えていると、孝樹君が近づいていて私を抱きかかえて持ち上げた。しまった。いつから気付かれていたのだろう。覗きが見つかったようで居心地悪い。
孝樹君が私を抱え、未だへたり込んだままの愛莉さんの鼻元に私を持って行った。
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『雪の残り』の感想