雪の残り【10】


 

 「猫に愚痴った僕が馬鹿だったよ」

 

 純一君はそう言って、その話を終わりだった。それから、たくさんの話をしたけれど、人間の価値観というのは、未だに謎が多く、理解に苦しむことが多い。

 

 そんなことを考えながら、気持ちは上の空のままで餌に口をつけようとしたら、鼻に当たるはずのものがそこにはない。はっと我にかえって目の前を見るとそこには薄い灰色のコンクリートしか見えず、目の前にあった餌置きがなくなっていた。顔を上げると、純一君が餌置きを取り上げたところだった。

 

 全身の毛を逆立てて、私が精一杯の猛抗議をすると、 

 

「僕の前で、あんまりあの2人の話をしないでくれ」

 

 純一君はなぜか腹立たしそうに言ってから餌入れを置き直してくれた。やれやれと再び餌に口をつけた私の耳に、

 

「そうか。名城の奴、若葉を泣かしていたのか」

 

 という声が入ってきた。はっと、顔を上げると純一君が立ち上がったところで、その顔は見えなかった。きっと、静かな怒りをたぎらせていたのだろうと気付くのは、放課後になってからのことだった。

 

*     *     *

 

「何の用だ? これから部活なんだけれど」

 

「聞きたいことがあるだけだ。話はすぐにすむ」

 

 2人の男の、不機嫌を滲ませた声に起こされると太陽がずいぶんと傾いており、放課後になっているのが分かった。私は、先日降りられなくなった中庭の木の上で、ちょっと寝そべってうとうととしただけのつもりだったが、あまりに気持ち良くてこの時間まで寝てしまったようだった。

 

 最近分かったことだけれど、一度やったことは成否に関わらず、二度目以降は意外に簡単にできるもののようで、今日は降りられなくなるようなことはなさそうだった。私は、木の上で背筋を前後の足をぐっと踏ん張って、ぎゅーっと背筋を伸ばしてみるが、不安定な体勢で寝ていたせいか身体の節々が痛く、寝すぎたせいか頭はぼぅっとする。

 

 声の方に目を向けたのは、それら一連の動作をしてからだった。

 

「……一体何事かしら?」

 

 声の主には見覚えがあり、純一君と孝樹君が正対して立っているのが分かった。私の方からは、孝樹君の顔が正面から見え、純一君の顔は後頭部しか見えない。木の上の私に2人とも気付いていないようだった。

 

「名城。朝、お前が藤崎のことを泣かせていたところを見たっていう奴がいるけれど、事実か?」

 

 純一君の怒気をこもらせた声に孝樹君は一瞬眉をひそめ、次の瞬間、「そうか、お前……」と何かに気付いたような呟きと、せせら笑うような人の悪い笑みが浮かんだのが見えた。 

 

 その反応は、純一君を激昂させるのに充分だった。止める間もなく純一君が拳をぐっと固め、「てめぇ!」と声を上げて殴りかかる。 

 

 そこからは、私にはまるでスローモーションのように見えた。純一君が突出した右拳を、孝樹君は直接受けるでもかわすでもなく左手ですっと受け流し――その直後、私の目には、純一君の頭が見えなくなり、純一君の足や靴裏がはっきりと見えた。 

 

 私の耳に、純一君が中庭の地面に背中から落とされる音が届くまでに、ひどく時間がかかったように思える。 

 

 そして、純一君が投げ飛ばされた――正確にはその場で一回転させられたわけだけれど――ということに思い至るまでに、さらに時間がかかった。 

 

 そのくらい、一体何が起こったのか分からないけれど、かといって“早技”というわけでもない。ただ、流れるような無駄も隙もない動きだった。人間同士の喧嘩というのを初めて見たけれど、動物同士の喧嘩と同じように見えて、その実全く異質なものだと感じる。 

 

 もしも私が同じことをできるなら頭から落とす。それが一番相手にダメージを与えることができるからだ。少なくとも、相手の体を気遣いながら喧嘩をするようなことを動物ならしないけれど、孝樹君がやったそれはあまりダメージを与えない落とし方という感じがあった。 

 

 

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