皇帝の高い買い物【プロローグ-1】


   

 面倒なことになった……。

 

 内心の動揺は悟られないように、ポーカーフェイスを装いながら、ラエトゥスはこの後どう行動すべきか必死に善後策を考え続けていた。

 

 目の前に転がっているのは、自分たちの最大の上司だった男の死体である。

 

 こんなはずではなかった……。

 

 後悔が脳裏をよぎるが、もはや後の祭りだった。

 

 もともとは、自分と自分たちに対する冷遇を改めさせようと仲間たちを煽動したのである。しかし、一旦火がついてしまうと、歯止めがきかなかった。

 

 この男は勇敢だった――と改めてラエトゥスは思う。逃げようと思えば逃げることができたはずなのに、それをしなかった。堂々と、彼らに対峙して説得しようとした。しかし、暴力の前に言葉は無力だった。ラエトゥスの配下の兵士の一人が突き出した槍は男の胸を貫き、男は呆気なく絶命した。

 

 目の前の躯《むくろ》となった男の名はプブリウス・ヘルヴィウス・ペルティナクス――。ペルティナクスはローマ帝国の18人目の皇帝である。

 

 たった今死んだことで、その地位にあったのは僅か86日間で終わったことになる。

 

 思えば――。とラエトゥスはペルティナクス帝に胸の中で冥福を祈りつつ、先代の皇帝が死んだ86日前のあの日に思いを馳せた。

 

 ペルティナクス帝の前の皇帝は、暴君として知られたコンモドゥス帝である。コンモドゥス帝が愛妾や召使ら、最も信を置いていたはずの者たちによって殺害された後、当時、首都長官だったペルティナクス擁立に奔走したのは近衛軍団長官の地位にあったラエトゥスだった。

 

 もっとも、暗殺を裏で操っていたのはラエトゥスだったし、暗殺そのものはペルディナクスも承知していた。ローマの議会である元老院もコンモドゥスの傍若無人に嫌気がさしており、皇帝の交代はあっさりと片付いた。

 

 コンモドゥス帝が滅茶苦茶にした社会を立て直すために尽力したのが、ペルティナクス帝の統治の全てと言っても言い過ぎではない。コンモドゥス帝の時代に蔓延した享楽的な空気を一掃すべく、緊縮財政と綱紀粛正に努めたが、その結果、ローマの市民からも楽しみを奪う羽目になったために市民からの評判は悪かった。市民からの不人気に迎合した元老院も反ペルティナクスで固まるようになり、たった86日の治世の間に幾度か暗殺未遂事件が引き起こされ、摘発された。

 

 いずれは分かってくれる。過去、幾度となくローマを襲った内戦という災いを繰り返してはならない。そのためには、我が身を人柱にしてでも帝国を立て直さなければ。その悲痛な思いで駆け抜けた86日であった。少なくとも、その想いだけはラエトゥスも理解していたし、敬意の念も抱いていたものだ。

 

 しかし、理念というのは時として現実と正反対の意味を持つことになる。現実に迎合するべきか、理念を選ぶべきかは時と場合によるにせよ。

 

 それでも、近衛軍団がペルティナクス帝を全力で支えようと一丸になっていたなら、歴史は違った方向に向かったのかもしれない。しかし、ドナティブムとよばれる皇帝が就任すると支払われるのが慣例となっていた近衛軍団への一時金を留保したことによって、ペルティナクス帝への忠誠は薄いものになっていた。近衛軍団はこれを軍団への軽視の表れと受け取り、不満が広がって行ったのだ。

 

 

 ペルティナクス帝も、ドナティブムの重要性は理解していており様々な方法で金を確保しようとしていたものの、緊縮財政に務める中、国庫から捻出することはできなかったし、ポケットマネーから支払うことができるほどの資産家ではなかった。

 

 

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