霞の塔


 私は当時10歳になるかならないかくらいの年齢だったので、在りし日の故郷のことをあまりはっきりとは覚えていない。

 

 しかし、どうしても忘れることができない光景もある。

 

 それが、私たちが住んでいた決して大きいとはいえない町の中央にそびえ立っていたとてつもなく巨大で高い塔である。

 

 写真も何枚か残っているが、あまりに高く――雲にも届かんばかりだったので、その全景を捉えられたものは一枚もなかった。

 

 ほんのほど昔までは、このあたりはとても豊かな土地だったんだよ……。

 

 あんなことがなかったら、今でもきっと……。

 

 住み慣れた土地を離れて、新しい地での生活になかなか馴染めなかった母は、町の風景を残した写真を見て当時を懐かしみながら、よくそう言って嘆いた。

 

 それを聞いて、強い口調で「子供によさないか」とたしなめるのが父の役割だった。今にして思えば、父も新しい土地でそれなりの苦労をしてきたのだろう。昔を懐かしむ言葉を、無理やり封印してきたのだろう。

 

 きっとそうしなければ、今だけを見ていなければ、現実に押しつぶされてしまっていたのだろうと思う。

 

 しかし、母の目には、そんな父の態度は冷たいと写ったようだった。

 

 それでも、いつか故郷に帰れる日を夢見てがんばってきたのだと思う。しかし、10年も経つと、故郷の復興が絶望的だという情報が次々と入り、希望は一つ、また一つと失われていった。

 

 

 

 国が、故郷の復興をあきらめた時、家族はばらばらになった。

 

 

 

 私は家族だった最後の時に、故郷だった町――だった地へと赴いた。

 

 そこは、昔は肥沃な土地だったと聞いた。しかし、今となってはそんな面影は残っていない。昔、町だった跡と、荒涼な固い土と緑のない細い木しか生えない土地が広がるばかりである。

 

 その中に、ひときわ目立つ残骸があった。

 

「これが、あの塔だったんだ」

 

 父がそう言って、それから天を見上げて目を細めた。まるで、在りし日の姿を思い浮かべるように。

 

「その頃は、この塔は、霞の塔と呼ばれていた」

 

 普段は寡黙な父だったのに、その時は不思議なほどによく語った。

 

「霞の塔と呼ばれた理由は、塔のずっとずっと上のほうが、霞がかって見えることがあったんだ。まるで霧に覆われているよう……だった。それから少ししたら、必ず雨が降ったんだ」

 

「なぜ、塔に霞がかかると雨が降ったの?」

 

「それは分からない……」

 

「調べようとしなかったの?」

 

「したさ……」

 

 その塔は、表面の金属の形状から人工物であることは明らかだったが、口伝で1000年ほど昔に建てられたと伝わっている以外は、誰が建てたのか、どのような技術によって建てられたのか、誰も知らなかったし、分かっていなかったのだと、父は語った。

 

 この塔がどのくらいの高さなのか、実際に昇って確かめようとしたものもいたが、鉄製の塔には爪を立てられる凹みもなく、あまりの高さもあって誰もが断念したのだという。

 

「結局……何も分からないまま、納得するしかなかったんだ」

 

 霞の塔に霞がかかれば必ず雨が降る。誰もがそれを当たり前だと思っていたある日、唐突にそれは起こった。

 

 ピシピシピシッ!

 

 冷たい音と共に、亀裂がまっすぐに伸びていった。

 

 誰にも、何も出来なかった。

 

 誰にも、何も分からなかった。

 

 誰もが呆然とそれを見守るしかない中で、まっすぐに伸びていった亀裂は今度は無数のヒビになって全体を覆った。

 

 そして――。

 

 塔は崩れた。

 

 根元から横倒しになるとか、中ほどからポッキリと折れるとか、そんな崩れ方ではなかった。

 

 まるで役割を終えたといわんばかりに、ぼろぼろと崩れていった。上から下へ――。残骸が降り注ぎ、人々は慌ててその場から逃げ出した。

 

 粉々になった塔の最後の残骸が落ちきるまで長いような、短いような時間が終わったが、住民たちには感傷に浸る暇も与えられなかった。

 

 今度は塔が刺さっていた大地から大量の水が噴出してきたからだ。大量の地下水は、町を飲み込み、池となり、住民たちに一時的に故郷を捨てて水が引くまで待つ決断をさせなければならなかった。

 

 そして、住民たちは町を去った。

 

 いつか戻る日を信じて。

 

 それは、何年経っても未だに現実のものになっていない。

 

 水は消えてなくなったが、今度は雨が降らなくなった。豊かだった大地は見る見るうちに荒廃していった。今では、干からびて硬くなり、草木もろくに生えない荒涼な砂漠が広がるばかりである。

 

 それが父の話の全てだった。

 

 父の言葉は、最後には呟くようなものに変わり、両手で覆った手の隙間から嗚咽がもれ聞こえた。

 

 私は、そんなに父になんと言葉をかけていいかわからず、未だに放置されたままの霞の塔の残骸をじっと見つめ、それから空に目をやって呟いた。

 

 いつか私が――。

 

 バラバラになった家族と故郷を取り戻して見せるんだ……。

 

 その時私は決意した。

 

*     *     *

 

「……あなたですか? 出資金を募っているというのは」

 

 目の前の眼鏡をかけた若者は大成功を収めた青年実業家で、大金持ちである。しかし、金儲けより夢を追い求めることに情熱を注ぐ人物であることも知られていた。

 

 こうやって会ってもらえということは、自分の夢に少なからず興味を持ってもらえたということだろう。実際にお金を出してもらえるかどうかは、ここからの説得次第ということになる。

 

 私は緊張して出された茶をあっという間に飲み干してしまった。

 

「企画書に目を通していただいたようですが、塔を建てたいのです」

 

「ええ。読ませてもらいました。……あんな砂漠の真ん中に……塔、とは……」

 

「あそこは確かに荒涼な砂漠地帯です。しかし、私の研究の結果、あの地下には広大な地下水脈が眠っていることが判明しました。そこで、地下水脈を汲み上げる穴を掘り、高い塔を建ててそこから散水するのです」

 

 私は大きく手を広げた。

 

 塔の最上部に設置された無数の散水口から水が撒き散らかされる時、塔の頂上には霞がかかったような光景が展開されることだろう。

 

 私は、一瞬、見たこともない塔の頂上が霞に覆われる様を夢想したが、すぐに青年実業家の冷静な声に我に返った。

 

「しかし、地下水など使い切ってしまえば終わりでは? むしろバランスが崩れてしまってはとんでもないことになる……」

 

 青年実業家はそう言って腕を組む。

 

「もちろん! そうならないように細心の注意を払いながら、ゆっくり水を使いながら、時間をかけて土地を変化させていきます。あの荒涼な土地に農業が出来るようになるまでそれほどはかからないはずです。私の予想では1000年もあれば塔がなくなったとしても、再び荒涼な土地に戻ることはないはずです」

 

 私は1000年後を夢見ながら、強く語った。

 

 

≪fin≫

  

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