夜中のその家で、玄関灯以外に灯りが漏れる窓は、二階の一つだけだった。そこは、その家の書斎である。そこでは、この家の主の作家が一人、ノートパソコンを開いて、小説を執筆していた。
50を過ぎたばかりのこの作家は、世間でも名の知れた大きな賞をいくつか受賞し、作品もテレビドラマ化されたり映画化されたりして、世間では“有名”の部類に入る作家だった。
不遇の時期を経て、20年ほど昔、売れっ子になった直後に広い邸宅を購入した。それは豪邸ではなかったが、定期的に造園業者の手が入る立派な庭と、いかにも日本建築らしい古風な家だった。
2つ年下の妻との生活にはやや不似合いな家で、通いの家政婦が来て掃除や食事の支度をしていた。その家政婦はもう帰っていたし、妻は“友人と”遊びに出かけていた。だから、今、この家にいるのは作家一人だけである。
作家は、妻が自身の稼いだ莫大な資産を食いつぶしながら、自宅の家事もせずに遊び歩いていることを知っていたが、咎めるようなことはしなかった。かつて不遇な時期を支えてくれていたことへの恩義も気持ちの中にはあったが、もともとやや感情的になりやすい妻は、ここ数年更年期障害からかヒステリックに感情を高ぶらせることが多くなっていて、注意することが億劫にもなっていた。
作家は、ノートパソコンのキーボードを、時折横に置いたメモに目を通しながら淡々と叩いていた。不思議なほどに、ストーリーがすらすらと紡がれていく。これほど、快調に書けるのは本当に珍しいことだった。
作家は、ここ数年なかったほどに集中してディスプレイに並ぶ文字の羅列に集中していた。集中しすぎて玄関の扉が開いたことに気付かないほどだった。この家では、玄関が開いたら自動的にチャイムが鳴るようになっているというのに。
……いや、実際にはチャイムはならなかったのだ。家全体に響き渡る鈴の音のようなチャイムが鳴らなかったら、玄関が開閉する些細な物音など、誰も気づきはしない。
作家はそんなことは知る由なく、ひたすらに物語を紡いでいたが、不意に、喉が渇いたと思った。
「……」
家政婦を呼ぼうとして、窓の外が真っ暗なのに気が付いた。そういえば先ほど「失礼します」と声をかけてきたでたではないか。その”先ほど”は、何時間も前だったが、作家にはほんの2、3度ほど瞬きをするくらいの時間に感じていた。
「休憩して……お茶でも飲むとしようか」
机に手を置いて立ち上がろうとしたとき、作家は、キィとかすかな音を立てて部屋のドアが開く音を聞いた。続いて、かちりという音が聞こえた。推理小説に造詣が深いこの作家はすぐに気づいた。
これは、拳銃の撃鉄を上げる音だ。
「誰か?」
自分でも不思議なくらいに冷静に作家は尋ね、扉のほうを振り返る。そこには、彼に向けられた部屋の明かりを反射して黒光りする拳銃の銃口が、小さな闇となって彼を見据えていた。
* * *
玄関の扉は予定通りに開かれていた。仮に鍵が閉まっていたとしても、この程度の鍵を開けるのはたやすいが、防犯カメラも仕掛けられているので、時間はかけたくはない。
……そもそも、犯罪者が玄関から入るのはどんなものだろう。
そんな風に思いながら、“彼女”は玄関の扉を開いた。
こちらも、事前にチャイムを切っておくという話通り、チャイムはならなかった。彼女は、靴を脱いで几帳面にそろえて、床に足を乗せる。
目の前の階段を上がってすぐの部屋が、彼女のターゲットの部屋だった。
彼女がふと横を見ると、全身が写るような大きな鏡が壁に据え付けられていた。彼女は変装用のニット帽とサングラスを取り外し、小さなバッグに入れた。彼女の仕事道具一式が入ったバッグである。
ニット帽の下からばさりと彼女の耳が隠れる程度に切りそろえられた短い髪が流れ出た。その髪の色は、目が覚めるような赤い色をしていた。鏡を見ながら、指先でさっと前髪を分けた。バッグからリップグロスを取り出し、すっと唇に塗ると、再びバッグにしまう。その手には、真っ黒な皮の手袋がはめられていた。
彼女は、バッグから拳銃を取り出した。レンコン状の回転式の弾倉がついた、リボルバーである。銃口を下げ、素早く、しかし足音は決して立てずに駆け上がる。
そして、ターゲットの部屋を、そっと開いた。
中に入ると、丁度男が立ち上がったところだった。黒い髪に、白髪が混じり始めた後ろ姿。彼女はその背に銃口を向けると撃鉄を上げる。その彼女に、「誰か?」とターゲットの作家が尋ね、振り返ってきた。
気配を悟られたらしい。彼女は苦笑を浮かべた。振り返ったその顔は、彼女が何度も写真で確認したターゲットだった。
「……こんな時間に、ノックもなく入ってくるのが、まともな来客のはずもないでしょう?」
「それもそうか」
彼女から見ても不思議なほど、作家は落ち着き払っていた。作品の中で、殺人事件だのを描いていると、こういうことにも耐性が付くものなのだろうか。
「落ち着いているね」
と言ったのは、彼女ではなく、作家のほうだった。ちょっとムッとした。作家は言葉をつづける。
「押し入り強盗が家人に姿を見られたのなら、もっと違った反応があるものだと思うけれどね」
「……」
なるほど、そういう考え方もあるのか。彼女は押し入り強盗ではないので気づかなかった。
「私は殺し屋よ。あなたを殺しに来たの」
彼女は、そう言った。なんだか、緊張感がなくなったなと思いつつ。ここで、引き金を引けば事は終わるが、不思議と引けなかった。
「なるほど。では依頼者は誰かな?」
「そんなこと言うわけないでしょう」
「じゃあ、当てて見せよう。……土橋君かな? A出版の。彼は人がいいから、ついつい締め切りを超えてしまって迷惑をかけているからね。それとも、三沢さんかな。家政婦の。この家は広くて、彼女一人では大変なんじゃないかと思っていたんだが。それとも……」
彼女は思わず噴き出した。
「あなたは……そのくらいしか、人に恨まれる覚えがないの?」
「いや……私を恨んだり、殺したいと思っている人間は大勢いる。……周りと衝突するような人生を送ってきたからね。そんな人生を送っていても……誰に殺されるのかわからないまま死にたくはないものだね」
「あいにく、依頼人の名前を明かすような殺し屋はいないわ」
「……そういう意味じゃなくて……君の名前だよ。今、銃口を僕に突き付けている君の」
彼女は、相手が一瞬何を言っているかわからず、キョトンとした。それから、薄く笑う。日本人は困ったときは笑うというのは本当のことだと改めて思った。
「……佳代乃。久木佳代乃」
彼女は一言答えると、引き金に指をかけた。
「佳代乃か。顔に似て可愛らしい名前だな……」
その言葉は、銃声とかぶさり、彼女にははっきりと聞き取れなかった。胸から血を流した作家はずるりと仕事机と椅子に背を預け、ずるずるとへたり込んだ。
彼女はそれを見届けると、その場を去っていった。
* * *
作家の白石幸三の妻が、逮捕されたのは初秋のある日のことであった。
殺し屋を雇い、白石氏を暗殺しようとしたのである。
マスコミは被害者が著名人だったことと、殺し屋という言葉の響きから、この事件はセンセーショナルに取り上げられた。
不遇の時代から支え続けてくれた妻が、莫大な遺産目当てに自分を殺そうとしたとしたと知った白石氏は、捜査員の前で絶句したとも報じられた。
そして、事件が明るみにでた理由は、白石氏の妻に依頼された殺し屋からの密告があったとも。
管轄する警察署の前で、マスコミ関係者が集まっていた。今日、再び事情を聞かれるために白石氏が警察署に呼ばれていることを突き止めたからだった。
しかし、対応した警察官は、白石氏は今日は警察署には来ていないと繰り返すばかりで、マスコミは無駄足を踏むことになったのだった。
* * *
騒々しい警察署の裏口から、白石幸三はこそこそと出て行った。ほっと一息ついた途端に、「お疲れ様でした」と後ろから声をかけられた。いきなりの女の声に白石はびっくりして飛び上がる。
「……そういうのは苦手だと思いますが、一度マスコミの前で話す機会を設けたほうがいいと思いますよ」
白石に声をかけたのは、ニット帽をかぶったラフな服装の女性だった。
「久木君か……驚かせないでくれ」
頭を下げる女に、白石は心臓を落ち着けながら見回した。マスコミの姿はない。
「大変なことになりましたね」
久木と呼ばれた女は、そう言いながらニット帽を外した。鮮やかな赤い髪がその下から出てくる。
「君の機転のおかげで命が救われたよ」
「……お役に立てて何よりです」
肩を並べて歩きながら、2人は話した。
「まさか、あれを信じると思わなかったがね」
「……編集長は大喜びでしたが」
「おいおい」
白石は苦笑した。
白石は正直、妻――もうじき元妻になるが――は頭の弱い女だとは思っていた。時折奇妙なことを言い出したり行動にとったりするところがあった。若いうちはそれも魅力と思っていたが、この年齢となると、イタいでは済まされない部分がある。それでも、白石の印税を浪費で散財し、若いホストに入れあげ、それを気づかれていないと思うほどの馬鹿だとは思わなかった。さらに、自分を狙っての殺人未遂である。
白石は小説を書くときに、本物そっくりの“資料”を作ってイメージを作るのが常であった。新作小説では、外見は目の前の久木佳代乃をモデルに、女殺し屋を作り上げた。最初の標的は敵の多い作家、という設定である。
しかし白石の妻は、久木佳代乃の写真や携帯電話の番号などが書き込まれた“資料”を本物だと思い込んだ。そして、久木に連絡を取ったのである。最初は何のことかわからなかった久木だったが、やがてこれがとんでもないことだと気付き、話を合わせて殺害計画や報酬などについて聞きだし、もちろん録音した上で警察に通報したのだった。
「先日原稿をいただいた赤毛の殺し屋の話。刊行は3か月後の予定でしたけれど、今月中に初版10万部で発刊することになりましたので」
「事件のおかげで話題性があるうちに売ってしまおうという腹か。相変わらずだな、君のところの編集長は」
「ただ……」
と久木は少し困ったような声を出した。
「ただ、殺し屋の名前に私の名前を使うのは勘弁してもらえませんか」
《fin》
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