片田舎の居酒屋は閉店間際だった。田舎町の夜は早いので、閉店時間も早い。しかし、飲むところもそんなにないので、まだ、それなりに賑わっていた。
そんな小さいながらも明るい店内の隅のテーブルを囲んで、近くの大学の学生、男女数人がビールを片手に雑談していた。
そのうちの1人――高志という名の青年が、唐突に怪談話を始めた。
「A駅からB駅までの線路に並行して約15㎞、県道が走っているだろ?」
男はそう言って、両手を目線あたりに上げて、両手の人差し指を立てた。
「若いカップルが、夜の2時にA駅の駐車場の前を通ると、黄色い服の若い女に声をかけられるというんだ……」
A駅を彼らは思い描く。ホームと古い駅舎いうか建物がある利用者の少ない無人駅である。15㎞離れたB駅も似たようなものだ。利用するのは、せいぜい朝夕の学生くらいのものだった。
「そこで、「B駅まで乗せて行っていただけませんか」と頼まれる。乗せてB駅の方向に車を出すと、その女は物静かだけれど、別に話しかけても返してこない、なんてことはない、見た目はごくごく普通の女だというんだ。ところが……A駅から県道を3㎞ほど走ると、短いトンネルがあるだろ? あの中でふとバックミラーを見ると……女の姿は忽然と消えているという話なんだ」
大学生たちは……一様に、手に持ったビールのグラスから口を放して、話の続きを促した。
「それで?」
「え? いや……それで終わりなんだけれど」
「おいおい、何かオチがあるんじゃないのか?」
「いや、本当に、ふっと現れてふっと消えてしまう感じなんだってさ」
「なんだよ。もっと怖いオチを期待していたのにさ」
「いや、そういうところがリアルなんじゃないか」
そんなふうに、言い合っていると、誰かがふと壁にかかった時計に目をやって、
「あと、3時間もすれば、その時間になるな」
とぽつりと言った。
「……ちょうどいいや。高志、お前、車だろ? おい、明美と一緒にその時間に、A駅の駐車場に行って来いよ」
「おいおい。酒が入っているんだぞ」
「なんで私が……」
怪談話を始めた張本人の高志と、カップル役を押し付けられそうになった明美は抗議の声を上げるが、酒の入っていたメンバーたちがさらに煽り立てたために、結局、2人は車に乗ってA駅の駐車場に行くことになってしまった。
* * *
……それから午前2時。
「なんで、こんなことに……」
明美は切れかけた街灯の下で、高志の白い軽自動車の中で憮然としながらその時を待っていた。酒はかなり抜けていたと思うが、その分、自分がものすごくバカなことをしているという自覚も強くなっていた。
明美は、今日集まっていた大学生の集団に含まれた女の子の中でも、特に気が強い性格だった。しかし、単純な性格で煽り耐性が低いので、挑発されると乗ってしまうところがあった。今日も、あおられた挙句、押し切られる形で、高志と一緒に彼の車に押し込められることになったことに、強い不満を感じていた。
「……もう帰っちゃおうよ」
明美が言った。
「何もなかったよ、って後で言えばいいじゃない」
「そうしたいけれど、あいつらどこかで見ているかもしれないしなぁ……それに、実は、この話には続きがあって……」
高志は運転席のドアに肘をついて、外を見ながら言う。
「何さ」
明美は(今さら後出しするなよ……)と思いつつ、先を促す。
「例の幽霊を見たカップルは、必ず結婚する……」
明美は一瞬唖然として、それから「バカバカしい」と吐き捨てる。
「夜中の午前2時に一緒にいるカップルなら、いずれ一緒になっているだろ」
ぶっきらぼうに言い捨てる明美に、
「夢がないなぁ……」
と、高志は言った。
「お前と夢があってたまるか」
苛立ちを含ませた明美の言葉に重なるように、コンコンと運転席側の窓を軽く叩く音が聞こえた。明美は、そちらに目を向け、高志越しに運転席の窓からのぞき込む人影に気付いて驚いて口をパクパクとさせた。
そこには、黄色いワンピースを着た、ショートカットの若い女が立っていた。
「……」
本当に出てくると思っていなかったので、指をさしたままぶるぶると震えて言葉を失った明美と違い、高志はすぐにパワーウインドウを下した。
「大丈夫なの?」
さすがの明美も不安を感じて声を出すが、高志は構わず外の女に声を掛けた。
「どうしました?」
見た目は、自分たちより年下の、十代後半から二十歳くらいに見えた。やや幼い顔立ちの、可愛らしい印象を受ける女性だった。街灯との位置関係上、外にいる女の顔がそんなにはっきり見えるはずがなかったが、その事実に明美は気づいていなかった。
「終電に乗り損ねてしまって……B駅まで送っていただけませんか?」
「構いませんよ」
高志が勝手に答えてしまったので明美が抗議のあげかけたが、それを察したらしい高志が、ヒソヒソと耳打ちしてきた。
「俺には彼女が幽霊や物の怪の類には到底思えない。本当に困っている人がいるのなら、助けてあげるのが人情というものだろう」
それでも明美は高志の袖をさらに強く「やめよう」という意思を込めて引っ張ったが、高志は無視して、ロックを外した。
黄色いワンピースの女が後部座席に乗り込んでくる。
「助かります」
その声ははっきりしていて、やはり、ごくごく普通の人間に思えた。
車が動き出した。
発進してすぐ、
「結局B駅まで行くのか……」
明美はぽつりと漏らす。
「お前な……後ろに人が乗っているのに、そういうことを言うなよ」
「そもそも、私が、何であそこにいて、どうしてこんなことになったと思っているのよ」
「もう、そういうことは言いっこなしだろ」
それでも明美はまだ納得がいかない。高志を責める言葉が次々と出てくる。それに返答する高志の言葉に含まれる苛立ちが如実になってきた。
「……いい加減にしろよ」
「いい加減にするのはあんたのほうでしょ。いつもいつも普段から、お調子者で、いい加減で適当で!」
正面を向いている明美の目に、トンネルの入り口の輪郭が見えてきた。話通りなら、ここで終わりだ。それまで我慢すればいいだけだったのに、急に別の意味で腹が立ってきた明美は振り返った。
「大体ね! アンタだって、こんな時間に一体何だってのよ!」
「やめろって!」
明美が怒鳴り、高志が制止する。
その時、明美は見てしまった。後ろに座る女性の表情は、先ほどまでの柔和なそれではなかった。無表情で両目だけがをカッと見開かれていた。短い髪がふわりと浮き、黒いオーラが包み込んでいるようだった。
明美だけではなく、バックミラー越しにリアシートの女性に目をやっていた高志も、言葉を失ってしまっていた。明美は恐怖のあまり汗がだらだらと流れてきた。
それは、間違いなくこの世の者ではなかった。
「お前たちだったのか……?」
怒りに震えるような女の声は後ろの女のもの。それを声と呼んでいいものかわからない。地の底から響くような……頭の中に直接響くような……そんな声だった。
「ひぃっ!」と声を上げた明美は車が動いているにもかかわらず、後先考えずにロックのかかったドアを開こうとインナーハンドルを引っ張った。同じものを見た高志は、後ろの女に恐れを感じたか、明美の声に動揺したのか、明美の行動に驚き慌てたのか、ハンドルを大きく回した。さらにアクセルを踏み違えたか、突然車が加速する。
車は、横滑りの駆動を含みながらあさっての方向に走り出し、明美は甲高い悲鳴を上げた。その声で我に返ったか、高志は今度は慌ててブレーキを踏みこんだが、コントロール失っていた車を立て直すことはできず、トンネルの壁に激突して停止した。
* * *
「運転手からも、同乗者からも、アルコールが検出されました」
交通課の二十歳ほど若い警官が、不快そうに伝えてきたのを聞いて、年配の警官は「ああ、そうか」とだけ答えた。この年配の警官は勤続30年のベテランだったが、出世とは無縁の警察官人生を送っていた。交通課一筋で地元の警察署の交通事故は、彼に聞けば何でも知っていた。
「2人とも、怪我自体は大したことはありませんが、何せ錯乱していて……。事情を聞くのは明日になりそうなんですが……」
若い警官が、ちょっと困ったように頭に手をやったのを見て、年配の警官は「明日のことは明日でいいさ」と返した。若い警官は、「いえ、それが……」と話を進める。
「どうも、噂の例の女の幽霊を乗せてしまった……なんてことを言っているみたいですね。まぁ、酔っぱらいの戯言ですが」
「なんだ。お前さんは、例の幽霊の話を信じていないのか?」
「まさか、警部は信じているのですか!」
年配の警官の言い草に、若い警官は驚いたようだった。
「そういう話は、若いお前さんらのほうが好きそうなもんだと思っていたんだが……最近の若いのはドライなのかね。まぁ、それはさておき、実は心当たりがあってな」
事故処理に出てきた他の警官は片側車線になったトンネルを交通誘導したり、レッカーに指示を出したりしている。この若い警官を引き留めていてもいけないと思いつつ、ついつい話をしてしまう。そして、この若い警官も幽霊の存在を信じてなどいなくても、興味はあるようで、話の先を促してきた。
「あれは……30年ほど昔の話だ。俺が警察官になったばかりの頃さ。この辺で、女子大生が行方不明になる事件があったんだ。22時半着の列車でB駅に来るはずだったのに、丸一日以上が経っても連絡もつかない、って捜索願が出された」
「……そんなことが」
「お前さんが生まれる前の話だから知らなくても当然かもしれんが、当時は大騒ぎになったんだがな……。どうやら、その女子大生はB駅の親戚のところに向かう途中で間違ってA駅で降りてしまったらしい。ワンマン列車だったが運転手が覚えていたんだ。まだ携帯電話が普及していない時期だったし、A駅の公衆電話は運悪く壊れていたし、終電で次の汽車もなかった」
1時間に1回しか列車が走らないような田舎の話である。東京生まれの目の前の若い警官には、22時半が終電など想像もつかないかもしれない。年配の警官にしても、せめてもっと都会での出来事だったら乗りなおすなり、有人の駅だったら電話も借りられたかもしれないし、公衆電話も壊れたままで放置されなかっただろうと、当時はこの女子大生を不憫に思ったものだった。
生きていればもう50歳前後だが……。
「それで、その女子大生は?」
と、若い警官が尋ねてきた。「死んだのですか?」とは聞かれなかった。
「今に至るも行方不明だ。……だが、警察の捜査の結果、A駅で途方に暮れていたその女子大生を若いカップルの車が拾ったことがわかった。そのカップルの話だと、B駅に向かう途中で些細なことで喧嘩を始めてしまってな。……仲裁しようとした女子大生に腹を立てた男のほうが、丁度このトンネルのあたりで放り出したらしいんだ」
真夜中の人気もなく、土地勘のない土地で、放り出された女子大生の心情を思い、年配の警官は30年ぶりにあの時の胸の痛みを思い出した。
「ひょっとして、そのカップルか……どちらか片方がその女子大生を殺してしまって口裏を合わせたんじゃ」
「そういう説も出た。いくら喧嘩していて腹を立てていたとしても、普通の感覚で真夜中に土地勘もない人間を放り出すなんてできるはずもないからな。しかし、証拠は出なかった。そして、その女子大生の足取りはそれっきりだ」
若い警官が顔を上げて周囲を見回した。どこかから、その女子大生がこちらを覗いているのでは、そんな居心地の悪さを感じたのかもしれない。
「さあ、仕事に戻ろうか」と年配の警官は促してから、ぽつりと呟いた。
「ひょっとしたら、彼女は今でも、あの時仲違いしたカップルを探して回っているのかもな……」
≪fin≫
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