冥界の王と人間の王


 全ての人間は、死ぬと冥界に行く。

 

 その冥界において唯一絶対の存在であるのが冥界の王である。全ての死神の王であり、冥界で死者たちに責め苦を与える鬼たちの王であり、冥界に巣食う魔物たちの王でもある。無論、全ての死者たちの王でもある。

 

 その冥界の王は、冥界を一望できる高台に居を構えていた。それは、とてもとても豪華な城だったが、その暗い外観は見る者を陰鬱な気持ちにさせた。

 

 冥界はいつも薄暗く、いつも頭上では雷鳴が轟いていたが、城の中は数え切れないほどのランプに灯がともされ、昼間のように明るかった。しかし、この城の中で、昼の光の下にいるような安心を感じる者はいなかった。

 

 その中で、大勢の甲冑をまとった屈強の戦士や、見た目麗しい者ばかりで選抜された使用人たちに傅かれているのが、冥界の王である。

 

 冥界の王にも名があるが、その名はあまりにも偉大で恐れ多い為、この城の者も、冥界の番人たる鬼どもも、死者たちも、口にすることなど許されなかった。冥界の王は、美の女神でさえ虜にしてしまうほど美しく、戦の神でさえ歯が立たないほどに強く、悪業の神が竦み上がるほど残酷だった。

 

 しかし、冥界の王を語るとき、誰もが真っ先に挙げるのは、この冥界の王が、誰よりも何よりも、公正であることだった。

 

 冥界は限りなく広大で深かった。深く堕ちていけば行くほど、暗い闇に覆われる。そして、冥界の何処に送られるかは生前の罪の軽重によって決められ、深ければ深いほど、冥界の番人たる鬼どもから苛烈な責め苦を与えられた。

 

 脱走しようにも冥界のほとんどは深い森に覆われており、その中には恐ろしい魔物どもがうようよと生息していた。魔物どもは、時折逃げ出してくる罪深い死者たちを容赦なく追い立て、食いちぎった。

 

 このような責め苦を受け、魔物に食われても、もはや死人である死者たちが死ぬことはない。岩を鑢(やすり)で削るように、永遠にも思える長い長い時間をかけて魂がすり減って消えてしまうまで、延々と苦しみ続けるのだ。冥界の奥深くへと送られた罪人たちは、何度も何度も繰り返し嘆いた。あんなことをしなければ――。

 

 このような苦しみを与える冥界の王が、不公正であるはずがない。否、公正とは冥界の王の行為そのものを指すのであって、いかにその行いが不公正に思えても、冥界の王の行為は皆公正であるのだ。

 

 城の中には、いくつもの大きな鏡が置かれていた。それはインテリアではなかった。そして鏡に似ていたが見る者の姿を映し出すものではなかった。鏡は、冥界の様々な場所を映し出していた。

 

 冥界の王は鏡を眺めて城の中を歩いていたが、ふと、冥界の最も深いところで苦しんでいる一人の男に目を留めた。今まさに、鬼どもから無数の槍で貫かれようとしている老齢の男は、しばらく前に冥界の住人になった男だった。

 

 生前はある国の王だった。ただの王ではない。誰もが恐れる暴虐非道の王であった。王によって殺された者は数え切れなかった。殺されたものとその理由は様々である。不正に蓄財していると因縁を付けられ一族全て切り刻まれた商人もいた。たまたま王の機嫌が悪い日に結婚式を挙げる予定だったという理由で教会ごと焼き払われた若い男女とその家族もいた。雨が3日続いたという理由で気象台の長官を殺したこともあったし、晴れの日を喜んだと殺された子供もいた。

 

 もちろん、王の暴政を戒めようとした勇気ある者がいなかったわけではない。しかし、そういった者たちが、どの様な運命を辿ったかは、想像に難くあるまい。王の周りにはおべっか使いばかりが幅を利かせ、賄賂が横行し、政治は乱れ、国は疲弊していった。

 

 王は生まれながらにしての王であり、生きたいように生き、したいようにして、死んだ。王の死を国民は大いに喜んだが、政を担うことが出来る人材はもはやこの国にはおらず、内政は大いに乱れ、今なお、国民は苦しみ続けている。

 

 その王が冥界に送られれば、最も深い場所に落とされるのは当然と言えば当然のことだ。冥界に生前の地位や貧富など関係はないのだから。

 

 しかし――。

 

 冥界の王は、鏡の向こう側で無数の槍で貫かれて、鏡のこちらからは聞くことのできない悲鳴を上げている王を見ながらふと思った。

 

 この男は確かに生前、とんでもない極悪人であった。罪もない者も大勢殺したかもしれない。優しい人たちを大勢泣かせたかもしれない。本来、国を守るために仕えていた兵士たちにも、無益な殺生をさせたかもしれない。

 

 しかし、この男とて、人間であったのだ。他の者たちと同じように、赤子で生まれ、子供の時代を過ごし、辛いことや苦しいことや――様々な経験を積んで、あのような極悪人になってしまったに違いない。

 

 もしかしたら、この男にも、何か善行と呼べるような行いをしたのではあるまいか。小さな羽虫の命を救ってやったことがあったのではなかろうか。あるいは枯れかけた草花のために水をやったことがあったのかもしれない。

 

 ……。

 

 ……。

 

 ……。

 

 ……。

 

 ……無いな。

 

 しばし考えて、思った。 

 

 見事なまでに思い当たらぬ王である。

 

 幼いころに父親が死ぬと、弱者への残酷さはすぐに姿を現した。初めての放火は3歳の時。説教をした教師を斬り殺したのは5歳の時。初めて使用人の女を手籠めにしたのは9歳の時、という有様である。

 

 王になってからは民衆には自分の贅沢のために極貧の生活を強いていたし、兵士や役人たちには自分への忠誠を示すために密告を奨励した。弱い者は踏みつぶし、病人からでも容赦なく搾り取った。

 

 極めつけが……。

 

 冥界の王はふと、再び顎に手を当てて考え始めた。

 

 そう言えば、この人間の王ですら恐れている存在があった。他でもない、こうして考え込んでいる冥界の王である。王は、冥界の王のもとに行くのを恐れ、冥界の王のために立派な神殿を造り、巨大な石像を建てた。王は、民から搾り取った金で、半年に一度、盛大に冥界の王を称える祭りを開いた。

 

 腹を空かせた民衆は、自分たちの口には決して入らない大量の供え物を目の前に無理矢理参加させられ、冥界の王への捧げ物として毎回30名もの奴隷が首を切られた。

 

 冥界の王は公正であった。しかし、いかに公正な存在でも自分のためにここまでされて、悪い気はしない。と、同時に、この者には、もっと相応しい罰があるのではないかとも考え始めた。

 

 死者を、冥界のどこに送るかを決めることが出来るのは冥界の王だけである。一旦送られた魂を、別の場所へ送ることが出来るのも冥界の王だけである。冥界の王は、この人間の王を、冥界の中でも罪の軽いものが送られるもっと浅い明るい場所へと送ってやろうと考えた。

 

*     *     *

 

 冥界の奥深くでのたうち回っていた人間の王だったが、傷は見る見るうちに回復していった。痛みも引いていく。しかし、これは救いではない。再び立ち上がれる程度に回復すれば、再び鬼どもが構える槍に貫かれる。こうやって、延々と苦痛を与えられるのだ。

 

 しかし体が回復しても、今度は槍は飛んでこなかった。趣向を変えて腹を鋸で裂こうか、背中に針を打ち込んでいこうかとでも考えているのだろうか。王は、自分が生きていたときに、気の向くままにそうやって罪人――その中には罪とも呼べない罪を着せられた者も多かった――を痛めつけて、なぶって、殺すのが好きだったのを思い出した。

 

 鬼どもの王も、そうやって死者を弄んで楽しむのか? 王は――腹の中では自分は今でも王だと思っていた――は、鬼どもをぐるりと見渡して立ち上がって叫んだ。

 

「愉しいか? 冥界の王よ!! あれだけのことをしてやったのに!!」

 

 王の怒声にかぶるようにして、空から光の帯が伸びてきた。それはやがて階段へと形を変えていった。

 

 王は一瞬ためらったが、すぐに決意して、その階段に足をかけた。そのまま一段、また一段と上がっていった。おそらく、この過酷な冥界の奥底から抜け出ることが出来るのだろうと、漠然と考えていた。どこに行ったとしても、今よりも酷い目に遭うことはないだろう。

 

 鬼どもの邪魔はなかった。王はずいぶん高く上がってから立ち止まり、下をのぞきこんだ。鬼どもが見上げているのがわかった。

 

「俺は王だ!」

 

 人間の王は叫んだ。

 

「冥界の王よ! 感謝するぞ!」

 

 そして再び光の階段を上っていた。

 

*    *     *

 

 冥界の違う場所にも一本の光の階段が下ろされた。そこも深く暗い場所だったが、人間の王がいたところよりは軽い罪の者が運ばれてくる場所だった。そこには王の兵士だった男がいた。彼は王に虐殺を命じられ、その罪の重さに耐えきれずに命を絶ったのだった。

 

 また、別の場所にも光の階段は降りた。そこにいた男は、王に気に入られた町娘の父親だった。王の配下の者の手によって娘が連れ去られようとした時に抵抗したために殺されたのだった。

 

 さらに別の場所にも光の階段ができた。そこにいた娘は王宮の使用人だった。暴政に耐えきれなくなった何者かが王の料理に毒を仕込んだときに配膳したことが原因で、犯人と疑われて牢に入れられ、食べ物を与えられずに餓死させられたのだ。

 

 別の光の階段ができた場所には数十人が固まっていた。彼らは、王によって冥界の神に捧げられた奴隷だった。彼らは王によって賜られた死を名誉なものだなどとは決して思っていなかった。あるのはただただ恨みの気持ちのみである。

 

 冥界のあらゆる場所に、数え切れないほどの光の階段が降りていった。そこには、かつて王によって虐げられ、不遇の死を遂げた人たちがいた。罪の軽い者もいたし、重い者もいた。光の階段の前に立った死者は、不思議と躊躇うことなく階段に足を乗せた。

 

 冥界に生者だったときの地位や貧富による上下はない。王はもはや王ではなく、王に殺された者も、王に理不尽な命令を受けた者も、もはや関係はない。

 

 数え切れないほどの光の階段が下ろされ、数え切れない人たちが同じところに向かっていた――。

 

 

 

 かつて王だった人間が向かっているのと同じ場所へ。

 

≪fin≫

  

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