外はかなり寒くなっていた。それはそうだ。もう12月なのだから。12月になっても、寒暖の揺れは大きく、今朝の最低気温は4度だった。しかし、明日はもう少し暖かくなりそうだ……と、部屋の隅に置かれたテレビの天気予報は言っていた。
小さなアパートの一室で、彼はこたつにもぐり込んで突っ伏していた。台所からは、彼女が作るコトコトと鍋が煮える音が聞こえてきていた。背中から見ると長い黒髪が揺れているのが見える。とびっきりの美人というわけではないが、十分美形の部類には入る。しかし青年は、何よりも万年上機嫌といった感じでいつも楽しそうな彼女の性格が何よりも好きだった。今も、身体を揺らしてリズムを取りながら鼻歌など歌っている。ただし、鍋をかけて、火がついたガスコンロの前で踊ったりするのは危険である。止めた方がいい。
元々、同郷出身の幼馴染。中学までは同じで、同じクラスになったりして話す機会もあったが、高校が別々になるとすぐに疎遠になった。それが、大学進学を機に上京したら、大学だって住んでいる街だって違うのに偶然ばったり再会した。故郷を遠く離れた地での再会は、互いに望郷の念を抱きながら慣れない土地で生活していた2人にとっては、単なる再会とは違った感慨を生んだ。それから頻繁に連絡を取り合うようになり、それはやがて交際に発展した。どうせ互いの両親同士も知った間柄。結婚を前提に半同棲に近い付き合いになるまでに、大した時間はかからなかった。とはいえ、それなりの時間と経験と段階を踏んでいたが、なかなか最終段階までは踏み切れずにいた。しかし、この1LDKの小さなアパートを今月末で出て行くことに、先日ようやく決めることができたのである。
青年は威張れるほど有名大学ではないが、悲観するほど底辺というほどでもない……つまるところ、平凡な大学を卒業した。思うような就職先が見つけられず、昨今の不況の影響もあって正社員としての職が見つからず、長らくアルバイトで生計を立てていた。そんな彼が、ようやく、それなりの大企業の工場で製造勤務の正社員として採用されたのは3月ほど前。事務職を希望していた彼にとって、製造現場での仕事というのは自分の意に沿わない、不本意なものだった。それでも、結婚やらなんやらを考え出した27歳の男にとって、安定は何より必要だったし、背に腹は代えられなかった。
「ほらほら、頭をどかして」
青年の部屋に土鍋はないので、普通の鍋で鍋料理を作って、台所のコンロからコタツの上に持ってきた。彼女がつけているピンク色の鍋つかみを見ながら、青年は、あれはいつ買ったんだったけな、と何となく思う。たしか、付き合いだしたばかりの頃だったから何年も前のことだ。
「……あれ、この人だれだったっけ?」
ふと、彼女の声につられて、青年はつけっぱなしになっていたテレビの方に目を向けた。時間を確かめると、すでに20時半を回っていた。
「ひょっとして、俺、寝てた?」
「ひょっとしなくても寝てた」
まだぼんやりしている頭をポンポンと叩く。それを見た彼女が苦笑したのが見える。その彼女が両手で持った鍋を、こたつの上の鍋敷きの上に置くのを、まだぼんやりした目で見ていた。
「……でも、本当にこの人は誰だったかしらねぇ」
彼女は今でも悩んでいるが、青年はすぐに気がついていた。何年か前に世間を騒がした男だ。この男の著書を持っていた時もある。大学を卒業する前後だったと思う。それはたちまちのうちにベストセラーになった。
『不幸自慢』
それが、その本のタイトルだった。
この筆者は別に幼いころに両親に死に別れたのだという。親戚中をたらいまわしにされた後は施設に放り込まれた。両親にがいることが当たり前の人間たちにとっては、両親がいないというのはそれだけで蔑視の対象となった。学校では当たり前のようにひどい虐めを受け続けた。
そんな境遇で大人になったにもかかわらず、彼は持ち前の楽天さと人一倍の努力で、相応の収入を得られるようになった。よく言えば純粋に、悪く言えばお人良しに成長した彼に近付いてくるのは、善人ばかりとは限らなかった。善人からいかに金を巻き上げてやろうかと、手ぐすね引いてやってくる顔に菩薩の笑みを浮かべた小悪党たちも多かった。
彼は、ある時は結婚詐欺の女に手玉に取られて多額の金を持ち逃げされてしまった。ある時には、知人の強引な頼みを断り切れずに連帯保証人にサインさせられた。その人間は、1カ月と経たずに姿を消してしまったので、最初から確信犯だったのは明らかだった。
莫大な借金を背負ってしまったために彼は必死になって働かなければならなかったが、それには大きな困難が伴った。彼は生来病弱であり、病気は45回以上にも上ったという。しかも、何かと言えば災いを呼びよせる体質らしく、全身に大小70回もの骨折を負った。手術は優に120回を数え、生傷の量はもはや4桁を数えたという。
『不幸自慢』でば、人が考えられるありとあらゆる悲惨な運命が、次から次へと筆者の男性に襲い掛かる様子がつづられていた。本の中で、筆者の近くにいたという、医者、友人・知人、親代わりだったという人の赤裸々な証言が次々につづられていた。
もはや何のために生きているのかわからないその人生に、当時の青年も、世間のひとたちも、大いに同情した。
そんな不幸な人生にもかかわらず、悲壮さをあまり感じさせず、時にユーモアを交えつつ軽妙なタッチで書き綴ったこの本は、世界中で大ヒット。20ヶ国語に翻訳されて、世界中の人たちに読まれた。
高額の印税収入が入ってきた筆者は、幸福になった。
「ああ! そうだそうだ」
青年の話を聞いていた彼女は、テレビの前で「ようやく思い出した」と手を打って納得する彼女を見ながら、青年はぽつりと呟いた。
「金が欲しいなぁ……」
「ん? 何か言った?」
ご飯をよそいながら彼女が聞き返す。
『不幸自慢』というベストセラーがあったことは今や過去の話となっていて、今では話題に出す者などいない。しかし、年に一回くらい思い出したようにテレビなどで取り上げられることがある。それは、その後のこの本と著者がたどった運命のせいであった。
出演している男は神妙な表情で語っていた。
「自分が経験した一番の不幸は、世界中の人たちから浴びたバッシングの嵐でした……」
なぜなら、『不幸自慢』の内容のほとんど全てがデタラメだとバレてしまったからだ。
そのことを思い出した青年は、何の気もなく「嘘ついて、人を騙くらかして、それでもいいから金が欲しいなぁ」などと呟いていた。
「何を言っているのよ」
青年のご飯茶わんを渡しながら、呆れたように彼女が言う。
「そんな方法で手に入れたお金でご飯を食べても、きっと美味しくないよ」
彼女らしい考え方だ……ご飯茶わんを受け取りながら、青年は思う。その意見に、反対する理由もなかったので、「そうだよなぁ」と返した。
「そうだよ」
言いながら菜箸を鍋に突っ込む彼女を見て青年は、今朝の丁々発止の議論の末に、彼女の好物の牡蠣の土手鍋に決まった経緯を思い出して、もうひとつ呟く。
「やっぱり、すき焼きの方がよかったなぁ」
「まだ言っているし」
彼女は笑いながら、程よく火の通った牡蠣をシイタケと一緒に頬張った。それを見ながら、いつ見ても、幸福そうな顔をしている……と青年は思う。
青年は、(唯物的な自分は、金だの物だのに執着してしまう。時として、それが絶対的な価値基準であるかのように錯覚してしまうこともある。そんな時に、それを否定してくれる人が側にいることの方が、ずっとずっと大切なことなんだ……)と、心の中で彼女に感謝しつつ、茶碗のご飯を口に運んだ。
《fin》
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