コインの裏表で


 そこは、クラシック(名前は知らない)が流れていて、何となく雰囲気のいいお気に入りの喫茶店だった。一人では割とよく来るお店だったけれど友人を誘ってきたこともない。隠れたお気に入りのお店。だから、彼と来るのは初めてだった。

 

「君ってさ、どこに勤めているの?」

 

 デートの途中でパスタを口に運びながら、何気なくした質問。交際――にまでは発展していないけれど、知りあって約半年もの間、そんなことを知ろうとしなかった私は、やっぱり変わり者なんだろうか。

 

 逆に、そういう自分のことをあまり言わない彼の方がルーズだろうか。あんまり裏のありそうな、よくない秘密がありそうな人には思えないけれど。と、目の前でピラフをスプーンですくって口に運んでいる彼を見つめた。

 

 私はよく他人からは、さっぱりした性格だと言われる。わざわざ訂正して回る気もないから放っているけれど、内心ではそんなふうに言われるのはとても嫌だ。実際の私は、割り切りも良くないし、落ち込むとなかなか立ち直れない……そういう人だ。

 

 そんな私は、1枚のコインを御守り代わりに持ち歩いている。外国の珍しいコインを収集するのが趣味だった父が生前大切にしていたコレクションの1枚で、コインには人の顔が彫られている。誰なのかは知らないけれど、古代ローマの偉い人らしい。残念ながら、私は理系はかなり強いし今ではそれを仕事にしているけれど、歴史――特に世界史は高校の授業レベルだ。昔の偉い人、とだけ分かればいい。

 

 なぜかそのコインを気に行って、父に頼みこんだが、結局最後まで父は私にそのコインをくれなかった。最後まで――というのは5年前、父が鬼籍に入るまで、という意味だ。その後は、3歳年上の兄がコレクションは相続し、その1枚だけを私は譲り受けた。

 

 迷った時はコインの裏表で決める。そのコインを手に入れてから、私に出来た新しい習慣だった。困った時の道標だが、所詮はただの気分の問題に過ぎない。しかし、その子供だましに少なからず助けられてきたのも事実だ。

 

 彼の話に戻ろうか……。私も26歳という年齢である。恋愛に年齢は関係ない、というけれど、劇的な恋愛ができるかどうかはやっぱり年齢も大きな要素のような気がする。仕事にかまけて、劇的とは程遠い――他人に言わせれば、私の仕事は充分劇的らしいけれど――生活を送っていると、劇的な出会いにぶつかるチャンスはめっきり減る。

 

 事実、私たちの出会いは、日課にしているジョギングコースが同じで、時々顔を合わせていたからという、至って平凡なものだった。互いに声を掛け合うようになり、練習後に一緒に談笑して、やがて休日に連絡を取り合い一緒に出かけるような関係になるまで、それほど時間はかからなかった。その頃から、純朴そのものといった感じの彼の話し方や仕草や飾らない性格に好意を抱いていたと思う。

 

 着ていく洋服はどんな色にしようか? 食事は何にしようか? 髪形はどういったのにしようか? ピンッ――。彼が好みそうな答えが出るまでコインをはじいている自分に気付いて苦笑する。そのくせ、友達以上・恋人未満という中途半端で無責任で心地の良い関係からさらに一歩踏み出そうとする選択をしようとすると、そのたびに裏が出るまでコインをはじき続ける私がいるのだ。

 

 あるいはそれは、自分が彼に対する好意の正体が何なのか自信が無いせいなのかもしれない。

 

 彼のことを、私は時々父に似ていると思う。容姿も、背格好も何もかも違うので、何がと問われると答えようもないのだけれど、全体的な雰囲気――いや、何となく微かに鼻孔をくすぐる匂いが、父のそれに似ているような気がするのだ。

 

 母を早くに亡くした私と兄は、父方の祖父母の家で育てられた。医者であった父は、多忙を理由に私にも兄にも大した関心は払わない人だった。兄は生前から今でも父を非常に嫌っているし、その態度を隠そうともしない。私が、色んな意味で父親っこになってしまったのは、そのせいも大きいのかもしれない。私だけは父のことを好きでいるべきだと思っていたのだった。

 

 父とは違う形で、父と同じような職種に就いたのもそのせいなんだろう。

 

 何で、パスタを食べながらそんなことを思ってしまったのだろうか……不意に、パスタにかかっているミートソースとは違った匂いを感じたような気がしたせいだろう。

 

 自分の体臭だろうか。仕事の匂いが染みついてしまったのだろうか。ヤバいな、と思う。職業臭というのは存在するけれど、私には無縁だと思っていたのに。

 

 あるいは彼の匂いだろうか。これはもしかして彼の仕事の匂いなんじゃないか、とふと思い、彼に職場を訪ねたのだった。

 

「俺? そういえば言っていなかったっけ?」

 

 彼は一瞬小首をかしげ、笑みを浮かべて答えた。

 

 それは、とても奇妙な感覚だった。それを聞いた瞬間、口の中のパスタの味が全くしなくなった。それどころか、目の前の彼の姿が、流れている音楽が、一気に遠ざかって行くような奇妙な感覚だった。

 

 目の前の彼は、そんなことに気付いた様子もなく、食事を続けている。

 

 

*     *     *

 

 

 翌日、私はいつものように出勤し、白衣に袖を通してマスクをつけた。

 

「先輩、何か元気がなさそうですけれど、大丈夫ですか?」

 

 と、後輩の子が聞いてきたので、私は「気にしないで」と手を振って返した。後輩に気付かれるほど私は落ち込んでいるのだろうか。いけない、いけない。私の態度が不自然だったのか、それともからかいのつもりなのか、「ひょっとして彼氏と喧嘩ですか~?」とありきたりの言葉を続けるのを、「さっさと準備なさい」とちょっときつく返した。

 

 喧嘩ならまだ良かったのかもしれない。

 

 私はA製薬会社の研究員。彼はライバルのB製薬会社の研究員。会社員という立場を守ろうと思うなら決して付き合ってはいけない相手だ。

 

 自分の気持ちを取るか、職場を取るか。こればっかりはコインで決めるわけにはいかない。

 

 

《fin》

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