ケイ氏はとある製薬企業に勤める研究者である。優秀な研究者なので周りからは信頼され、自前の研究室を一つ用意されるほどだった。
ケイ氏は世間に溢れる“ある問題”を解決するために自分の力を使いたいと切望していたので、毎日、自分の業務が終わった後も研究室にこもって精力的に研究を続けていた。
その努力が実る日がやってきた。長い時間をかけて、紆余曲折を経て、ついにその薬を完成させたのである。
ケイ氏はさっそくこの薬を商品化すべく上層部へと掛け合ったが、どういうわけか芳しい返事は聞こえなかった。
研究データは完璧で非の打ちどころはない。ケイ氏には、上層部がなぜこの薬の商品化に難色を示すのか理解できなかった。製造コストなどにしても、充分に検討を重ねて、黒字に出来る自信があった。
そして何を直せばよいのかと尋ねても、曖昧な答えしか返ってこなかった。
「素晴らしい薬なのは分かるんだけれどねぇ」
にやにやしながらある部長が言った。
社長の親族というだけで入社して、対した実績もないにもかかわらず部長になった始終赤ら顔で腹の突き出した50男で、時には酒の匂いを漂わせながら出社することもあるような男である。
このコネだけの無能な男をケイ氏は嫌悪していたが、それは相手の部長の方も同じだっただろう。ケイ氏に対する部長の口調には、研究室の中しか知らない世間知らずというニュアンスがありありと含まれていた。
他の幹部の反応にしても、この部長ほどあからさまではないものの、そういう含みがあった。
「素晴らしい物なのは分かるが、商品化しても売れないだろう」
ケイ氏は、いっそ他社にこの薬を持ち込もうかとも考えたが、それは会社員としてのルール違反である。そして、それが出来るほどケイ氏は厚かましくもなく、不義理な人間でもなかった。
「どうしてなんだ! この薬を使えば、世の中からあの問題はなくなるというのに!」
屋上でケイ氏は叫んだ。
しかし、捨てる神あれば拾う神ありである。ある女性幹部がケイ氏の熱心さに打たれ、自分の担当外であったにもかかわらず商品化に向けて尽力してくれることになったのである。
その甲斐あって、上層部も折れ、ついにケイ氏の薬は日の目を見ることになったのだった。商品は、事前の予想を裏切って、意外な売れ行きを示した。
* * *
そして数カ月後――。
テレビカメラの前で女性アナウンサーが冷静な口調で事態の成り行きをつたえていた。
「ごらん頂けますでしょうか? こちらは○○製薬会社の正門前です。これから警察による家宅捜索が行われようと――あっ、いま、警視庁の捜査員が続々と入っていきます。これは、同社が発売した『アルコール分解薬』が飲酒運転を助長しているという市民団体の告発を受けてのものです。○○製薬会社はわずか90秒で体内のアルコールを完全に分解して除去してしまうという画期的な薬を開発・商品化しましたが、この薬が飲酒運転による事故の捜査や検問時での検挙の妨げになるとして、発売当初から問題視されていました」
* * *
薄暗い警察の取調室でケイ氏は警察官に「どうしてなんだ」を繰り返していた。テレビドラマのように安っぽい机の上には蛍光スタンドが置かれているが、その蛍光灯は灯されていなかった。机を挟んで、ケイ氏を見つめるケイ氏より少し年上らしい警察官の視線は、同情を多分に含んでいた。
「どうしてなんだ。飲酒した後ですぐに飲めばすぐに素面に戻れて、世の中からは飲酒運転も、酔った勢いで犯罪を犯してしまうことも、酔っ払いの事故もなくなるというのに……」
ケイ氏の目の前に座った警察官は黙ってケイ氏の話を聞いていたが、やがて胸のポケットから煙草を取り出して、吸いますか? と尋ねた。ケイ氏が首を左右に振ると、警察官は黙って煙草の箱を出す前と同じように胸ポケットにしまった。
「……あなたはお酒は飲まれないでしょう?」
と、警察官が諭すように言った。
「酒を飲む人のことは、酒を飲まない人には決して分からないんですよ……」
それを聞いたケイ氏は両手で頭を押さえ、テーブルに突っ伏した。静かな取調室に、ケイ氏の嗚咽だけが響いていた。
《fin》
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