北の森の大蛇【1】


 

一.

 

  焼けるような鈍い痛みが右腕に走る。その痛みは右腕のみならず、全身に拡がっていくような感じだった。どうやら“奴”の血には、酸に似た成分が混じっているらしい。

 

 俺は木々に覆われ大半の日の光が遮られた薄暗い森の中を走った。深手は負っていたが、万が一のことがおきたときのために決めてあった逃げ場所としていた泉の場所を思い出す余裕も、走りながら肩越しに、同行しているはずのユミールの気配を探り、ついてきている事を確かめる程度の余裕もあった。 

 

 しかし、右腕の痛みは治まるどころか、さらに痛みが深く、広範囲に拡がっていった。

 

……早いところ落ち着いて、怪我の治療をしなければ……そう思ったところで、俺の鼻に入ってくる空気のにおいが変わったような気がした。草や木、湿った土の匂いだったのが、明らかに水の匂いを多く含んだものに変わったのだ。気のせいではない証拠に、目の前の風景もにわかに明るくなった。

 

「ついてきているか? ユミール」

 

 俺は後ろの男に声をかける。返事は荒い息遣いだけだった。かなり早く走っているから、ユミールにはついてくるのがやっとなのだろう。

 

 目の前に大きな泉が広がった。水面が陽光を反射してきらきらと光っている。俺は周囲に獣などの姿がないことを確かめると、泉の淵に近づいた。浅瀬には細かい砂が堆積しているのが分かった。俺は、細く短い草が生い茂っているのを気にせずに膝をついて、泉の澄んだ水に右腕を浸した。

 

 しばらくは傷口に水がしみて、更なる痛みを招いたが、泉の冷たい水が、傷の熱を取っていくにつれ、痛みもおさまっていった。

 

 ふぅ、と小さく息をついてから、顔を上げて周囲を見回すと、俺の後をついてきた“役立たずの”ユミールが、所在なさげな顔をして立っていた。

 

 元はといえば、こいつのせいでこうなったのだ。

 

 俺は声をかけることなく、視線を泉に落とした。

 

 今回俺が受けた依頼は、王国の北――正確な地名はあるようだが、普段は誰も近付かないので通称で北の樹海とか北の森などと呼ばれる地に住む大蛇を殺すことだった。

 

 世界中には魔獣と呼ばれる存在は多くいるが、この大蛇は数百年にもわたって生き続け、何人もの勇猛な戦士を退けてきた、第一級の怪物である。

 

 その全長は普通の蛇の20倍以上。その巨大な顔は人間の背丈ほどもあり、人間も熊も虎も一口に飲み込んでしまえるほどだ。……熊はとにかく、虎はこのあたりにはいないようだが。

 

 だが、この北の森の大蛇は、蛇と呼ぶには違いすぎていた。

 

 普通の蛇は敵を殺す時、その細長い体で絞め上げて殺すが、奴はどうやら違うらしい。ここに来るまでに、幾つかの人間の死体が転がっていたが、その全てが下腹部から下を残して食いちぎられていた。熊や虎には到底できない芸当である、おそらくはあの大蛇にやられたのだろう。あまりにも巨大すぎて胴体で絞め殺すのは難しいのか分からないが、奴はその巨大な頭で獲物――つまりは人間だが――を頭からくわえ、その牙で噛みちぎって殺すことを好んでいるらしかった。

 

 その牙には象のような巨獣でさえも簡単に殺してしまえるほどの猛毒が含まれているという話もあったが、これに関しては確かめようがない。あの牙で噛まれたら、毒があろうとなかろうと、一瞬で絶命してしまうだろう。

 

 もっとも、遭遇しても生き残った者がいないではなかった。生き残ったものは幸運にも大蛇の存在に早く気づき、身を潜めて逃げ延びたのだ。彼らは大蛇のまだら模様の姿を思い出しただけで震えが止まらなくなり、一ヶ月にわたって大蛇に追われる悪夢を見たと語っているという。

 

 なるほど。今日、大蛇と出会ってよく分かった。あの巨躯が鱗を光らせ森の中を身をくねらせながら進んでいく様を見たら、旅の傭兵とモンスターハンターとを生業にしてきたこの俺であっても、しばらくは夢に見るのは確実だ。常人ならその場で発狂してしまうかもしれない。

 

 

目次】  【2】へ

 

▼あなたのクリックが創作の励みになります。▼