光の射すほうへ【9】


 ぱんぱんと服の上から叩いてみる。すると、掌に何か固いものが当たる感触があった。アカリは感触があった場所を調べてみる。右胸にポケットが付けられていたので中をまさぐってみると、小さな鍵が出てきた。何となくこれは持っていった方がいいと思い、鍵をもっと詳しく調べてみると細長い鎖も付けられているのが分かったので、アカリは鎖を首にまわして、鍵の部分をワンピースの下に入れた。

 

*     *     *

 

 次に入った部屋は、少し広い部屋だった。その真ん中に、黒光りする大きな物体が置かれている。

 

「グランドピアノ?」

 

 それは、いつかバルドルに会ったときと同じような感覚。知らないはずなのに、アカリはそれを知っている。

 

 アカリは手前の蓋の部分――鍵盤蓋と呼ばれる部位――を開けた。白と黒の長方形の鍵が配置されている。黒鍵36、白鍵52の計88鍵を、左から一本ずつ指で押さえてみる。鍵を押さえるたびに違う音が響いた。

 

 それから、側板や前屋根、大屋根を開いて、演奏する準備を整えると、小さな丸椅子に腰掛けた。

 

「……やっぱり、私はこれを知っている。これが楽器だって知っている。演奏の仕方を知っている」

 

 静かに弾き始めた。

 

 ……知ってる? 

 

 アカリは自分の頭の中に浮かんだピアノ協奏曲を、指が向くままに弾き始めた。速いテンポの第一楽章が終わり、緩やかな第二楽章へと移行していく。

 

 ……違う。覚えているんだ。

 

 アカリの心の中で、何かが生まれる感覚。いや、蘇ってくる感覚。曲は、第二楽章を終えて、クライマックスである第三楽章へと入っていく。アカリの指はさらに軽やかさを増す。傍で見ていたら、彼女の指に羽が付いているように見えるかもしれない。アカリはこの楽器にすっかり魅了されていた。いつまでも弾いていたい。そう思った。

 

 しかし、突然、ぼーんという鈍い音が響いた。

 

 弾き違えた瞬間に、アカリの指が止まる。今まで軽かった指は、急に鉛になったかのように鍵盤の上から動けなくなった。

 

 ……何をしているの!

 

 不意に、耳の中に蘇った女性の怒声。

 

 ……どうして言われたとおりに弾けないの!

 

「ひっ」と声を上げるアカリ。彼女の手の甲に鋭い痛みが走った。

 

 ……私に恥をかかせないで!

 

 アカリは耳の中に次々と反芻されるヒステリックな罵りの言葉から逃れようと両手で両耳を押さえてピアノの脇にうずくまった。

 

「やめて! やめて! もう失敗しないから! 間違えないから! ぶたないで!」

 

 耳をふさいでも、頭の中で反響し続ける罵声は止まることを知らない。手の甲に、二の腕に、背中に、頬に、鋭く裂くような痛みが生まれる。口の中に鉄錆に似た味が拡がった。苦痛から逃れようとさらに身を縮めた。両目からボロボロと涙がこぼれ、部屋に敷かれた赤い絨毯に黒い染みを広げていく。アカリはさらに悲鳴を上げて泣きわめいた。

 

 涙はもう出尽くした……そう思うくらいに泣き尽して、ようやく気持ちが落ち着いて顔を上げた。その間にどのくらいの時間が経ったのか分からない。

 

 黒く光沢を放っているピアノは、下から見上げると凶悪な怪物に思えた。否……怪物は、このピアノを通り越して、アカリの記憶を通り越して、さらにその向こう側にいる。

 

 アカリは、こうやって落ち着くまでの間、ずっと傍らにいてくれたバルドルに声をかけた。

 

「バルドル……みっともないところを見せてごめんね」

 

 ヘルに貰ったカーディガンの袖でごしごしと目元を拭った。何回も何回も深呼吸して、部屋中に響きわたるのではないかと思えるほど激しい動悸を押さえようと左胸を押さえた。これが限界と思えるほど速かった心臓の鼓動が、平常通りの落ち着きを取り戻していくのが分かる。

 

 よろよろと立ちあがろうとしたが、よろめいてバルドルの首にしがみついた。そのままバルドルの柔らかい羽毛で包まれた首に顔を埋めた。その首は思っていたよりも太くて巨木の幹のように泰然としていた。

 

 

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