光の射すほうへ【20】


 

 「“灯”が眠り続けている間、“灯”のお母さんはずっと、謝罪を繰り返している。『目が覚めたら、もうピアノを続けろなんて言わない。好きなことをいくらでも頑張ってくれればいい。だから、目を開けて』……って。人は、失いかけて初めて大切なのが何かに気付くんだ。悲しいことだけれどね……」

 

「嘘だ! 嘘だ! そんなのは……嘘だ」

 

 アカリは声を荒らげたが、その声はすぐに弱々しいものに変わっていった。アカリの胸中の天秤は、“バルドルの言葉を信じたい”と思う気持ちの方に静かに傾いていく。

 

 しかし、最期の言葉が耳の中に蘇った途端に、天秤は“バルドルの言葉を信じられない”と思う気持ちの方に、一気に傾いた。

 

 ……ピアノを続けられないのなら私の娘じゃない。

 

 あの人に必要だったのは、あの人の代わりにピアノを弾いてくれる人だ。“灯”じゃあない!

 

「嘘だ。私はもう信じない!」

 

「アカリにとっての全ての真実はあの時の言葉だったのかもしれない。でも本当に、それだけが“灯”の全てだったのか?」

 

 アカリはもう一度、自分の手に目を落とす。

 

 “灯が”ピアノを嫌いになったのはいつの頃からだったか? 母に褒められるのが誇らしく研鑽を重ねるのが楽しかったあの頃の気持ちを失ったのはいつだったのか? ついには母の目を恐れるようになったのはいつからだろう? 

 

 けれど、その前はどうだっただろう? よく頑張ったねと頭をなでてくれたこと。あなたには才能があるわ、と頬ずりしてくれたこと。あなたなら、世界一のピアニストになるわ……最後には押しつぶされそうになっていたその言葉も、きっと母としての愛情から出てきたものではなかったのか。アカリは、その愛情にちゃんと気づいていたからこそ、母親の期待に応えようとしたのではなかったのか?

 

 “灯”は、母親のことを「自分の代わりにピアノを弾いてくれる人」としか思っていない、と思っていたが、実はピアノを通してしか自分の愛情を伝える術を持たない人だったのではないか……?

 

 アカリの胸の前に水をすくうように手を揃えた両の掌に眩い光が集まってくる。

 

「それが希望の欠片だよ」

 

 とても綺麗な光……アカリはバルドルの希望の欠片という言葉を受けて、目を細めてその光を見つめて、そっと押し出すように放り捨てた。アカリが手放した希望の欠片は真っ直ぐに上って消えてしまった。

 

「あの人の、自分勝手な優しさを、希望だと思えたのは、幼くて愚かだった頃だけだわ。まるでサンタクロースがクリスマスの朝にプレゼントを置いておいてくれるのが当たり前だと信じていたように、他人の好意が無条件に自分に向けられているものと思い込んでいたあの頃だけ」

 

 アカリの静かな言葉が終わる前に、バルドルはそっと右手の掌を上にしてアカリに向かって差し出した。その掌の上に積み木が置かれている。

 

「君もよく知っているだろう? 円錐≪えんすい≫の積み木だよ。これは横から見れば三角形だし、上から見れば丸に見える。視点をちょっと変えれば、丸にも三角にもなる。……例えば、“灯”は陸上をしていたけれど、『自己ベストを出して最下位だった』時に、今までで一番いいタイムだったというのは希望にもなるし、最下位だったというのは失望にもなる。つまり、ほんの僅かに視点を変えるだけで、アカリの知っている世界の姿は簡単に変わってしまう。そのくらい、いいかげんなものなんだよ。アカリたちが知っている世界なんていうのは……」

 

「それでも……何もしなければ、希望を持つことも、絶望することもないわ」

 

「希望も絶望もない世界……何者も存在せず、何者も生まれない世界という意味と同じなんだよ。そんな世界は今まで存在したこともなければ、世界中のどこにもない世界……。それは死んだら得られるのかさえ分からない」

 

「死ねば……消えるだけだわ。自殺したら永遠の責め苦を味わうとか、生きているうちに悪いことをしたら地獄に行くとか、そんなのは、本気で苦しんでいる人を救おうと思わない卑怯な人間の戯言よ! 本気で自分の存在を否定する人間の苦しみが分からない人間の、汚らわしい自己満足なだけの、言葉遊びよ!」

 

 

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