光の射すほうへ【18】


 

 「あの絵日記も、つまるところは、私の幻想に縛られた妄想だったわけね。生まれた時ぐらいは自分も愛されていたんだろう。愛されていたかったんだって。なんて馬鹿。私は何て愚か……」

 

「あなたの母親は音大を出て元はピアニスト志望。父親もまた音楽の道を挫折して今は楽器の調律師。2人にとってのあなたの存在の目的も意義も、ただ、自分たちの叶わなかった夢を叶えさせるだけのスペアだった。お人形でいることだけが“灯”の価値だった」

 

 両手を胸の前で組んでアカリを見つめながら話していたヘルは、一旦言葉を区切った。

 

「その役割を果たせないあなたは、2人にとっては不要な存在でしかない。可哀そうね……灯。本当に、可哀そう……。あなたのために祈ってあげるわ。愛されることのない可哀そうなお人形のために……」

 

「ありがとう……ヘル。……私はあなたの闇を受け入れるわ」

 

「書庫で、ずいぶん悩んでいたようだけれど……それが、結論でいいのね?」

 

「私のようなお人形でも、生に執着する。本当に……浅ましいことね」

 

 アカリはスプーンを置いて微笑んだ。ヘルも微笑みを返してくる。アカリは今のヘルと自分とは同じような顔をしているだろうな、と思った。諦めの色が色濃く滲む、本心から出てくる笑み。

 

 いつの間にか、暖炉の薪がはじる音が消え、燭台にともされた蝋燭の火も消えていた。久々に思い出した闇の中で、ヘルの姿だけがはっきりと見える。

 

 ヘルの体が水の底から覗くように、ぐにゃりと歪み、やがて原形をとどめないペースト状の物体へと変貌を遂げながら拡がっていった。かつてヘルだった流動体は、放射状に拡がっていき、触れたものは次々と闇に侵されていく。

 

 この部屋はほとんど飲み込まれよう手しており、さらに拡大する勢いはとどまる気配がない。いずれ、この館――エリューズニルを飲み込み、この虚構の世界のすべてを飲み込むだろう。

 

 しかし、この世界はもともと闇に閉ざされていたのだから、この上さらに闇に侵食されたらどうなってしまうのだろう……とこの期に及んで下らないことを考えたアカリだったが、その終着を知ることは彼女にはできそうになかった。

 

 アカリの周りに次々とファントムたちが現れるのを感じた。いや、そもそも彼らを生みだしたのはアカリ自身なのだから、アカリだけは彼らを本当の名であるガングラティとガングレトと呼んでやる必要があるだろう。……そういえば、下男と下女ということは雌雄の別があるということだがどうやって見分ければいいのだろう? どうでもいいことばかりが頭に浮かぶ。思わず吹き出して、自分がこれから消える存在だということを忘れそうになっていた。

 

 すでに、アカリは闇の中に立ち尽くしていた。その中から先程まで話していた女の声が聞こえてくる。

 

「おやすみなさい……アカリ」

 

 この瞬間においても、ヘルの体は宇宙のように膨張を続けているはずだが、もはや闇の末端となろうとしているアカリに、その事実を確認するすべはない。最期に、己の小ささを知るのみだった。アカリは夜空に向かって話しかけるように、叫ぶでもなく、ただ静かに、最期になるであろう言葉を口にした。

 

「おやすみなさい……ヘル」

 

 ずぶり……と、足下から、泥の中に引きずり込まれるような不思議な感覚。その感覚はほんの一瞬だけのことで、その後は、周囲からあらゆる光が失われた。

 

 しばらく意識が飛んでいたらしいがまだ消滅したわけではないらしい。気がつくと辺りは真っ暗闇ではなく、薄明るい陽光に包まれているような気がする。なんだかとても懐かしい。そして、とても暖かく心地よい。

 

 どこからともなく規則正しく刻まれる音が聞こえてくる。それは、とても近いようであり、とても遠くから聞こえるようでもあり。

 

 それは心臓の鼓動に似ている……と思ったが、すぐにその音の正体に思い至った。

 

 メトロノームだ……。

 

 

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