光の射すほうへ【17】


 

 「……すっかり思い出したかしら? 一之瀬灯さん」

 

「思い出したくないことも、何もかも……ね」

 

 アカリはヘルの正面の椅子に座り、手つかずのパンとシチューを眺めた。ワイングラスを手にとって、グラスの淵に鼻をつけて香りを嗅いだ。別にテイスティングなんて行為ではなく、これがアルコールかどうか確かめたかっただけだった。予想した通り、アルコールの特有の香りが鼻孔をくすぐった。

 

「ワインはお嫌い?」

 

「一応、未成年なので」

 

 ヘルの問いにアカリは虚勢で返した。

 

「一度くらい、アルコールの味を覚えておいても、損はないわよ」

 

 アカリのそんな虚勢など、ヘルにとっては受け流すことなど簡単だっただろう。ワイングラスを口元に運ぶヘルの様子を見ながら、アカリは駆け引きなどしても到底及ばないだろうと実感していた。だったら、疑問を直接ぶつければいい。

 

「あなたは……北欧神話に出てくる死者の女王ヘルなのかしら?」

 

「私は闇の女王と名乗ったわ。……それより、重要なのは……」

 

 本を取り上げて『北欧神話』の本をくるりとひっくり返して裏表紙を見せた。そこには世界樹ユグドラシルと宇宙を形成する9つの世界が描かれている。

 

「この本にもあなたは見覚えがあったわよね。小学校高学年の時のあなたの好きだった本よ」

 

 アカリは小さく頷く。ヘルにわざわざ確認されるまでもなく、アカリはちゃんと思い出している。

 

「『こんなくだらないものを読むのはやめなさい』 この言葉は?」

 

 アカリはもう一度頷く。不快さしか感じない思い出。その後、“灯”の母親は“灯”の頬を張ったことも思い出していたが、今でもそれが自分の記憶だと理解はしていても、まるで他人の心の中を覗き込んでいるような、現実味のない思い出だった。

 

「あなたの母親にとっては、あなたの興味を持つこと、やりたいこと。何もかも含めて気に入らなかった。くだらないことと引き離した」

 

 ヘルの手の中にあった本がテーブルの上に置かれた。続けて「さぁ、お食べなさい」という声とワイングラスの中の赤い液体がアカリに向けられた。目の前の一連の流れるような動作にも、アカリは現実感を感じていなかった。

 

 アカリはグラスに唇をつけ、ワインを舌を湿らせる程度に口の中に入れた。舌の上いっぱいに拡がった慣れない甘苦い感じのする味にアカリはしかめっ面を作ってグラスをテーブルに戻した。初めて飲む酒は不味かったが、気付け代わりにはなった。

 

 目の前で、ヘルがくすくすと笑っているのが分かり、アカリはむっとしながら、パンの方に手を伸ばした。

 

「ロールパンにシチュー? 期待させた割に簡素な食事ね」

 

 アカリは言いながらパンをちぎって口に運ぶ。

 

「パンをシチューに浸して食べても、ここでは誰も責めないわ」

 

 乾いたパンに唾液が絡んで団子状になり、飲み込もうとすると喉に引っ掛っかかるような感じがして気持ち悪い。たしかに、パンをシチューで浸せばこんなことはないだろうが、ヘルが言いたいことは、そんなことではない、ということはよく分かっていた。

 

「あなた、好きだったわよね。母親から、品がないと酷く責められてからやめてしまったけれど」

 

「何でも、知っているのね」

 

「何でも知っているわ。私も、この世界も、もちろんバルドルも、あなたが作り出したんだもの。疲れ果てて、死さえ選んだあなたが、逃げ場として心の奥底に作り出したのがこの世界。闇の女王ヘルも、エリューズニルも、神獣バルドルも。あなたが好きだった北欧神話の世界を基にして創り出した。私はあなたの絶望を具現化し、バルドルはあなたの希望を具現化した存在」

 

「……さっき、絵日記を読んでいて気付いたの」

 

 アカリは話を変えた。

 

「ずっと違和感を感じていたけれど、何となくわかったの……。あの絵日記は、ずっと一之瀬灯の視点で書かれていた。……変な話じゃない? 赤ちゃんの時まで、灯の視点だなんて。赤ちゃんに、何が分かると言うの?」

 

 アカリは自嘲気味に笑うと、真っ直ぐにヘルを見つめた。

 

 

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