光の射すほうへ【16】


 ヘルのラグナロクにおける役割はよく分かっていない。しかし、解釈によってはラグナロクの発端を作ったのはヘルであったともされる。彼女は、死者たちの爪で舟を作り、死者たちの軍勢を乗せて現世へと現出した。この舟の完成こそがラグナロクの開戦を知らせる号砲だったというのだ。このため、古代北欧の人々は、ラグナロクを少しでも遅らせるために、死者の爪を切って埋葬していたとされる。死者の大軍が神々へと戦いを挑む……最終戦争の始まりに、何とふさわしい光景だろうか?

 

 また、このことからも分かるように、ヘルは北欧神話において唯一“死者を蘇らせることができる”存在でもあった。それだけではない。神々でさえも、死ねばヘルのところにいくのだ。オーディンの息子で賢明さと優雅さを兼ね揃え、あらゆる存在から愛された光の神バルドルもまた、ヘルの父親のロキの姦計によって死んでヘルの下にいった1人である。バルドルの弟のヘルモーズの哀願によって、ヘルはある条件と引き換えにバルドルを蘇らせることを約束するが、ここでもロキが邪魔をしたために条件は満たされずバルドルは蘇らなかった。ロキはこのために拘束され、神々による責め苦を与えられことになる。しかし、光の神バルドルが消えたことで生じた世界のほころびは確実に世界を蝕んでいった。

 

 ラグナロクの後のヘルについては諸説ある。死者の軍勢をロキに預け、自らが動かなかったためだ。そのため、ヘルと死者たちは滅びずラグナロクで死んだ人々を支配したという説と、バルドルなど心正しい存在が生き残り、ヘルと死者たちの国は滅んだとする説などがある……。

 

*     *     *

 

 アカリはぱたっと本を閉じた。異様に時間が気になった。この館に来てからかなりの時間が経っている。……いや、バルドルと一緒に旅をするようになってどれほどの時間が過ぎたのだろう。

 

 今、アカリは自分が置かれている状況を必死になって考えていた。北欧神話における死者の女王ヘルと、自らを闇の女王と名乗ったヘルとが同一人物ならば、アカリ……いや“灯”はすでにこの世の人間ではない。ならば、今ここにいる自分の存在は一体何なのか? 死んだ自分を、ヘルは一体どうしたいのか?

 

 考えたってどうなるものでもない。いずれは、あの闇の女王と対峙しなければならない。しかし、なかなかアカリはその覚悟を固めることができなかった。読みふけっていたのではない。決心するまでに、途方もない時間が必要だった。

 

 本の山を除けてむき出しになった赤い絨毯に目をやり、もう一度バルドルがいないことを確認する。これまで自分を守ってくれたバルドルはもういない。もはや自分1人で戦うよりないのだ。

 

 1人で向き合うしかないんだ……。

 

 アカリは恐怖のあまりがくがくと震える足を、拳を握り何度も叩いた。

 

*     *     *

 

 書庫を出ると何度も通った玄関ホールが広がっており、右に階段、左に玄関の大扉。そして正面の扉を開けば、ヘルが待っているであろうダイニングがある。

 

 真っ直ぐに正面へと進みダイニングへの扉のノブに手をかけた。決心をつけたはずなのに、ドアノブを握る手が小刻みに震え、なかなか回せない。

 

 扉を開くと中から暖炉の薪がパチパチと音を立てているのが聞こえ、熱気と一緒にいい匂いが漂ってきた。

 

「シチューの匂い……」 

 

 ちょっと拍子抜けしたアカリだったが、すぐに中からの声に表情を引きしめた。

 

「遅かったわね。でも、今、新しいのを用意させたばかりだから、シチューは温かいわよ」

 

 細長いテーブルの上座に座ったヘルがシチューをスプーンですくっているのが見えた。その正面に手つかずのパンとシチューが置かれている。ワイングラスの中の赤い液体は、ワインだろうか。

 

「……返すわ」

 

 アカリはヘルの近くまで寄って、北欧神話の本をテーブルの上に置いた。パタリっという音が、薪のはじける音に重なった。

 

 

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