光の射すほうへ【15】


  はっと振り返ったアカリの目に飛び込んできたのは、フード姿の女。

 

「闇の女王……ヘル! あなたが、やったのか!」

 

 アカリは闇の女王を睨みつけ、女王はアカリに冷笑を返した。

 

「違うよ。バルドルは、あなたの絶望に飲み込まれたんだよ」

 

 ヘルが声を立てずに笑うと青黒い左側の頬が小さく歪んだ。

 

「私に付いてきなさい……今度は私が、あなたを導いてあげよう」

 

 ヘルは、そっと両手を差し出した。右手は生者の温かさを感じる掌。左手は骨がむき出しになった死者の掌。アカリはどちらにもすがらなかった。アカリは獣のように歯を食いしばり、ヘルを睨む目にさらに力を込めた。そんなアカリの攻撃的な態度をヘルは意に介した様子もなく、すっと右手をもうひとつ前に進めた。

 

 右手には、いつ、どこから取り出したのか、一冊の本が握られていた。

 

「あげるわ。それから気が変わったらダイニングにいらっしゃい。今度は食事を用意して待っていてあげるわ」

 

 ヘルはアカリが本を受け取るのを確かめると、背を向けて、音もなくアカリの前から去って行った。部屋を出る音はせず、初めて会った時と同じように、周囲に溶け込むようにいつの間にかその姿は消えていた。アカリはヘルの背中を見て思った。まるで、この後自分がどうするのか分かっているようだ……と。 

 

*     *     *

 

 アカリは念のために、バルドルの姿を探してもう一回書庫の中を回ったが、やはりその姿を見つけることはできなかった。仕方なく、壁に背を預け、尻を床につけて膝を折り曲げて、ヘルに渡された本に目を落とした。

 

 表紙に書いてあるタイトルを声に出して読んだ。

 

「北欧神話……」

 

 今更、神話の本を渡して、ヘルは何を考えているのかと思う。神のどんな言葉を聴けと言うのか。

 

 はっ! 闇の女王を自認する者が? 悪魔に聖書を渡されたも同然ではないか!

 

 アカリは心の中での僅かばかりの抵抗として、ヘルに対する侮蔑的な感情を吐き出してから、北欧神話の本を開いた。

 

*     *     *

 

 そして、すぐに手が止まる。ヘルの名を見つけたからだ。しかし、そこにあったのは“闇”の女王ではなく、“死者”の女王ヘルの記述。

 

 最終戦争≪ラグナロク≫を引き起こした悪神ロキの3人の子供の1人。それが『死者たちの女王ヘル』。ちなみに2人の兄は世界に災厄をもたらす存在と予言されたために拘束された巨狼フェンリルと、外界に放逐されたミズガルズの大蛇ヨルムンガルドである。ラグナロクにおいて、フェンリルとヨルムンガルドによって最高神オーディンと最強神トールは命を落とす。まあ……ラグナロクについては、時間があればゆっくり読めばいいだろう。時間があれば、だが。

 

 そしてヘルも神々に災いをもたらす存在として極寒の地であるニブルヘイムへと追放された。その姿は半身は美しい生者のものだが、残りの半身は醜い死者のものなのだという。

 

 追放されたヘルは、ニブルヘイムのさらに地下であるニブルヘルにエリューズニルという館を建て、下男であるガングラティと下女であるガングレトにかしづかれ、死者たちの女王として君臨した。

 

 ヘルの元へ行くのは老衰や疾病による死(藁≪わら≫の死)を迎えた者たちである。死者たちは、苦難に満ちた道を通り抜け、ようやくエリューズニルへとたどり着く。しかし、ようやくたどり着いたそこも、死者たちの安息の地とはならない。

 

 死者たちを待っているのは「病床」と名付けられたベッドの上での寝起き、「空腹」の皿と「飢え」のナイフでの食事。北欧神話における名誉の戦死者と藁の死と称される死者は明確に区別され、生前、勇猛果敢な戦士だった戦死者はオーディンのヴァルハラと呼ばれる館で、毎日殺し合いと宴を繰り返し、来るべきラグナロクに備えている。

 

 古代北欧の戦士たちは、藁の死を何よりも恐れ、自らの体を傷つけて死に至ることも多かったと伝えられる。

 

 

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